吉田松陰
吉田松陰像(作者不明/山口県文書館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

吉田松陰


吉田松陰よしだしょういん( A.D.1830〜A.D.1859)
長州藩士。江戸で佐久間象山さくましょうざんに師事。君主の下に万民が結集する一君万民論を説く。1854年のペリー再来の際、下田で海外密航を企てたが失敗し、幽閉中に松下村塾で教え、木戸孝允高杉晋作伊藤博文らが巣立つ。幕府の対外政策を批判し、安政の大獄により江戸で刑死した。

吉田松陰

長州藩士。江戸で佐久間象山さくましょうざんに師事。君主の下に万民が結集する一君万民論を説く。1854年のペリー再来の際、下田で海外密航を企てたが失敗し、幽閉中に松下村塾で教える。幕府の対外政策を批判し、安政の大獄により江戸で刑死した。

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野辺に朽ちても、士魂は愛弟子へ

維新志士たちを育てた長州出身の大思想家

山口県萩市内にいまも残る松下村塾は、本造瓦葺き平屋建ての小さな建物である。この私塾から、木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文など、幕末から明治にかけて活躍した鈴々たる人材が巣立っていった。彼らを、師として薫陶し、維新運動を精神的・理論的に先導したのが、幕末の尊王思想家の吉田松陰である。1830年(文政13)、長州藩萩城下に下級武士の子として生やままれた松陰は、5歳のときに山鹿流兵学師範として藩主に仕える叔父の吉田大助の養子となる。幼少時から優秀で、11歳にして藩主の前で講義を行い、19歳で兵学家として自立した。

海外報道:松蔭の密航は、日本開国に興味を示す欧米の新聞に報じられた。その論調は「志高い日本の青年がアメリカ留学を懇願したが、提督の頑固な反対で拒絶された」という同情的なものだった。
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『幽囚録』にみる国家思想 思想に命をかけた末の刑死

アヘン戦争などの東洋情勢を知るにつれ、松陰は西欧の兵学を受け入れなくては国防が危ういとの信念をもつにいたる。平戸留学、ついで江戸に出て、当時最高の洋学者であった佐久間象山から砲術と蘭学を学んだ。さらに肥後の官部鼎蔵みやべていぞうとともに東北見学へ出かけ、帰藩後に謹慎処分を受けている。

ペリー艦隊の来航を見て外国留学の意志を固めていた松陰は、1854年(嘉永7・安政1)に日米和親条約締結のためペリーが再航した際、密航を試みた。弟子の金子重輔と小舟を漕ぎ寄せてアメリカ軍艦ミシシッピ号に辿り着いたものの、「政府の許可を得よ」との返答でアメリカ渡航の願いは拒絶される。

吉田松陰
吉田松陰像(作者不明/山口県文書館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

藩の許可なく東北を歴遊し、士籍を剥奪された吉田松陰。

松陰たちは幕府に自首して入牢、やがて国元の萩に送検された。免獄となったのち幽閉生活を送ることになった松陰は、叔父の玉本文之進が中断していた私塾の松下村塾を再興する。塾内では上士も下士も差別されず、書物の知識を実社会でどう活かすかを重視し、米掲きこめつきや養蚕を行いながら勉強した。約80人いた門下生からは、のちに維新の指導者となる人材が多数輩出した。松陰は『幽囚録』と題した海防軍事案で、伏見に城を築いて幕府を移すこと、京を中心に防衛ラインを引き軍事的統一国家をつくること、その力を基盤に北はカムチャツカから南はルソン(フイリピン北部)にいたるまでを領有すること、などと論じている。こうした思想は弟子を通じ、明治新政府の富国強兵、植民地政策に反映されていつた。日米修好通商条約締結など幕府の政策に憤った松陰は、老中の間部詮勝の暗殺を企てた。安政の大獄により幕府は松陰の江戸送致を命令、取り調べで暗殺計画を自供し、自らの思想を語った松陰は死刑判決を受ける。死の直前、弟子に向けた遺書『留魂録りゅうこんろく』を書き残す。身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂1859年、斬首。維新への精神的な種子をまき、燃え尽きた30年であった。

説得空しく:木戸孝允、高杉晋作ら門下生は、過激すぎるとして松蔭の老中暗殺計画に反対する。松蔭は「僕は忠義するつもり、諸友は功業をなすつもりか」と怒り、彼らの説得を聞き入れず突き進んだ。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

松下村塾

松下村塾(画像出典:WIKIMEDIA COMMONS

同時代の人物

フランツ=ヨーゼフ1世 (1830〜1916)

オーストリア皇帝(在位1848〜1916)。1848年革命の混乱のなかで即位し、翌年ハンガリーの革命運動を鎮圧したのち、50年代に新絶対王政と呼ばれる反動体制をとった。66年のプロイセンとの戦争に敗れると、ハンガリーとのアウスグライヒ(妥協)を締結し、ハンガリー王を兼ねた(オーストリア=ハンガリー帝国)。

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