北条政子
北条政子(菊池容斎画)©Public Domain

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北条政子 ほうじょうまさこ( A.D.1157〜A.D.1225)
鎌倉幕府初代将軍源頼朝みなもとのよりともの正室。北条時政の長女。二代将軍源頼家みなもとのよりいえ、三代将軍源実朝みなもとのさねともの母。頼朝の死後、実家の北条氏が台頭し、執権を独占・世襲した。頼家が比企氏など側近を重用て政治を乱し、御家人の不満が高まり、頼家が重病に倒れると将軍職から退け、伊豆修禅寺に幽閉。頼家失脚に反発した比企能員ひきよしかず一族を誅殺した。2年後には、政権奪取を目論んだ、父執権北条時政を伊豆に幽閉。三代将軍実朝は源頼家の子の公暁くぎょうに殺され、源氏の正統は3代27年で断絶した。幕府の混乱を好機到来とみた後鳥羽上皇は倒幕の兵を挙げた(承久の乱)。

北条政子

頼朝死後の幕府を軌道に乗せた尼将軍

頼朝の急死により奪われる穏やかで幸せな生活

源頼朝の挙兵から4年半、1185年(寿永4)、平氏が滅亡した。急速に貴族化した平氏を見限った東国武士たちが頼朝を支援した結果だった。

頼朝が坂東武者ばんどうむしゃをまとめ上げることができた陰には、坂束の気風を知る政子の存在も大きかったに違いない。もともとは田舎の小豪族の娘である。伊豆に流された頼朝の監視役とされたのが父北条時政であったことから、2人は出会った。やがて頼朝と恋仲になるが、平氏の流れをくむ父は許さず、ほかの縁談を取り決めてしまう。政子は雨が降る夜道を頼朝のもとへ走り、2人は結ばれた。反対を押し切ってまで結婚した頼朝が、坂東武者の大将となると、政子は頼朝のよき相談者として、政治を支えていく。

伊豆山神社
伊豆山神社Wikipedia

伊豆山神社:源頼朝が伊豆に流された折に源氏再興を祈願した神社(静岡県熱海市)。のちに鎌倉に幕府を開くと、伊豆山神社を箱根神社とともに関八州鎮護とした。政子との逢瀬の場とも伝わる。

1192年(建久3)、頼朝は征夷大将軍に任じられ、鎌倉の政権は安定期に入った。政子の生涯にとって、もっとも心穏やかな時期だったに違いない。しかし、安寧の日々は長くは続かなかった。1199年(建久19・正治1)頼朝が急死、長男源頼家が18歳の若さであとを継ぐことになった。だが、頼家は頼朝以来の宿臣たちを疎み、比企氏など側近を重用するなど政治を乱していく。御家人の不満は徐々に高まり、1203年(建仁3)、政子はついに頼家を除く決断を下す。頼家の病気に乗じて将軍職から退け、伊豆修禅寺に幽閉。続いて、頼家失脚に反発した比企能員ひきよしかず一族を誅殺した。2年後には、後妻と共謀して政権奪取を目論んだ、父である執権北条時政を伊豆に幽閉する。肉親への冷酷な対処はつらい選択ではあった。しかし彼らの行動は、武士たちの結束の上に拠って立つ鎌倉の権力を、根本から失いかねないものであった。

政子の言葉が救った鎌倉幕府の危機

三代将軍に就いたのは頼家の弟源実朝みなもとのさねともだったが、実朝は源頼家の子の公暁くぎょうに殺されてしまう。実朝には子がなく、公暁も討たれたため、頼朝直系の男子は断絶してしまった。

実朝の死による幕府の混乱を好機到来と見た人物が京にいた。後鳥羽上皇である。倒幕の兵を挙げた上皇は、北条一族の京都守護、伊賀光季いがみつすえを襲い気勢をあげる(承久の乱)。これに従う武士たちは、畿内を中心に14か国。草創期の鎌倉幕府にとって最大の危機であった。

鎌倉では、政子邸に御家人たちが召集された。しかし多くの武士は朝廷に刃向かうことを畏れ、動揺を隠せない。このとき、政子が立ち上がり、「最期の詞」と前置きして諸将に訴えた。頼朝による幕府草創以来の恩義、朝廷による追討の不当性……。

頼朝以前の朝廷によるひどい扱いを思い出したか、政子の言葉に諸将らはみな涙を流して忠誠を誓う。政子の訴えによって御家人たちの結束は保たれ、大勢は決した。幕府方の軍勢は、北条泰時を大将として総数19万騎。戦いはあっけなく幕府方の勝利に終わった。以後幕府の実権は政子の実弟北条義時ほうじょうよしときが握り、その後も北条家嫡流による政治体制は続いていくことになった。

気丈な母:富士の巻狩で、長子・頼家が鹿を射止めたのを頼朝は喜び、使者を立てて政子に知らせる。しかし政子は「武家の跡取りが鹿を獲ったぐらいでどうする」と、使者を追い返した。

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中世社会の成立

武士の社会

北条氏の台頭
北条氏の台頭 北条氏・源氏・藤原北家・皇室系図
北条氏・源氏・藤原北家・皇室系図 ©世界の歴史まっぷ

源頼朝のあとを受け継いだのは、嫡子ちゃくし源頼家みなもとのよりいえであった。けれども御家人たちは、18歳の新しい鎌倉殿が、頼朝と同様に強大な権力をもつことを歓迎しなかった。頼朝の死からわずか3ヶ月ののち、北条時政ほうじょうときまさ・大江広元・三善泰信ら幕府の宿老しゅくろうたちは、頼家から訴訟(裁判)の裁決権を取りあげた。頼家の活動を制限し、その上で御家人の代表である宿老13人の話し合いによる政治運営を開始した。13人の合議制と呼ばれるものがこれである。

13人の合議制

若年の新将軍頼家の専制をおさえるための制度。構成は、文官として大江広元おおえのひろもと三好泰信みよしのやすのぶ中原親能なかはらのちかよし(広元の兄)・二階堂行政にかいどうゆきまさの4人。頼朝以来の武将として北条時政ほうじょうときまさ北条義時ほうじょうよしとき三浦義澄みうらよしずみ八田知家はったもちいえ和田義盛わだよしもり比企能員ひきよしかず安達盛長あだちもりなが足立遠元あだちとおもと梶原景時かじわらかげときの9人である。当時の幕府の有力者を知ることができる。また制度としては、のちの評定衆ひょうじょうしゅう引付衆ひきつけしゅうに連なっていく。

合議の中心に位置したのは、頼家の母北条政子ほうじょうまさこの実家北条氏であった。これ以後、北条氏の台頭は急速に顕著になっていく。
1199(正治しょうじ元)年の末、源頼家の「第一の郎等」といわれた梶原景時が鎌倉を追放された。文武に優れた彼は源頼朝と頼家から厚い信任を受け、和田義盛にかわり侍所別当にも任じられたが、他の有力御家人から激しい非難をあびて失脚した。翌1200(正治2)年正月、梶原景時の一族は駿河国で襲撃を受け、合戦ののちに滅び去った。同国の守護は北条時政であり、彼の指令が駿河の御家人たちに届いていたものと思われる。
1203(建仁3)年、頼家が重病に倒れると、北条時政は政子とはかり、頼家の子一幡いちまんと弟千幡せんまんを後継者に立てた。将軍の権限を2分割し、2人に継承させようとしたのである。頼家と一幡の外祖父比企能員ひきよしかずは反発し、時政を討とうと計画したが、逆に比企能員は北条氏に誘殺され、武蔵国の豪族比企一族は一幡もろとも滅ぼされた。
頼家は伊豆修善寺に押し込められ、千幡が将軍となって源実朝みなもとのさねともを名乗った。
北条時政ほうじょうときまさ大江広元おおえのひろもとと並んで政所まんどころ別当になり、将軍の補佐を名目として政治の実権を握った。この時政の地位は執権しっけんと呼ばれ、以後代々北条氏に伝えられていく。

1204(元久げんきゅう元)年、時政ときまさは幽閉中の源頼家を殺害し、翌年にはひそかに実朝さねともを退けて娘婿の平賀朝雅ひらがともまさを将軍職につけようとした。朝雅は信濃源氏の名門の出身で、当時京都守護として活躍していた。陰謀の一環として、幕府の重臣畠山重忠はたけやましげただの一族が滅ぼされた。しかし、この企ては政子まさこらの反対にあい、朝雅は京都で殺され、北条時政は引退を余儀なくされた。時政ときまさのあとは、その子の北条義時ほうじょうよしときが受け継いだ。
1213(建保元)年、義時よしとき和田義盛わだよしもりとその一族を滅ぼした。義盛よしもり頼朝よりとも以来の功臣で、梶原景時かじわらかげとき滅亡以後に侍所別当の職に復帰しており、その勢力は侮れなかった。鎌倉を戦火に巻き込んだ和田合戦の末に、義盛よしもりの本家三浦氏を味方につけた北条方が勝利し、義時よしとき政所まんどころと合わせて侍所の別当を兼ね、執権の地位を不動のものとした。

わずか12歳で将軍となった源実朝みなもとのさねともは、しだいに政務に精励するようになり、政所を整備して幕府の訴訟・政治制度の充実につとめた。従来、実朝は北条氏のまったくの傀儡かいらいであったと言われてきたが、最近では、彼の政治への取り組みを積極的に評価しようとする説が有力になっている。しかし、将軍としての実朝が、彼を擁する北条氏の強い影響下にあったことは疑いがない。彼は個人的には武芸よりも公家文化に親しみ、和歌や蹴鞠を愛好し、妻も貴族坊門ぼうもん家から迎えた。官位の昇進を望み、若くして高位高官にのぼっている。また、禅僧栄西えいさいや宋人陳和卿ちんなけいらと交わり、とくに後者の勧めに従って渡宋しようともした。この試みは船が座礁して果たせなかったが、実朝の武士に似つかわしくないこうした行動は、彼のおかれた過酷な環境と関係があったのかもしれない。

1219(承久元)年正月、源実朝は源頼家の遺児の公暁くぎょうによって、右大臣就任の式典の途中、鶴岡八幡宮の社頭で暗殺されてしまう。公暁が誰に操られていたのかは、北条氏説、三浦氏説があり定かでない。結局、公暁も殺されて、源氏の正統は3代27年で断絶した。北条義時は親王を奉じて将軍に立てたいと願ったが、後鳥羽上皇はこれを許さなかった。そこで源頼朝の遠縁にあたる摂関家の藤原頼経ふじわらのよりつねが、後継者として鎌倉に迎えられた。
1226(嘉禄2)年に将軍となり、これを摂家将軍、藤原将軍という。将軍とは名ばかりで、実権は執権北条氏の手中にあった。

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