保科正之
保科正之像(狩野探幽筆/土津神社蔵/福島県立博物館寄託/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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保科正之 ほしなまさゆき( A.D.1611〜A.D.1672)

2代将軍秀忠の落胤。信濃国高速藩主保科正光の養子となり、あとを継いで高速藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。異母兄である3代将軍家光に重用され幕政に参画。家光逝去の際、幼い4代将軍家綱の輔弼役を託される。武家諸法度に殉死の禁止を追加するなど、善政を指導し、強権的だった武断政治路線を、文治政治に転換させた。

保科正之

2代将軍徳川秀忠の子。異母兄家光の跡を継いだ3代将軍家綱の輔弼ほひつ役として幕政の安定に貢献した。藩主としても手腕を発揮し、殖産興業などを進め、会津藩政の基盤を確立させた。

江戸幕府の草創期を支えた2代将軍秀忠の落胤

兄の遺言で幕政の表舞台に

2代将軍徳川秀忠は正式な側室をもたなかったが、奥女中に産ませた子がひとりあった。その子が、保科正之である。正之は信濃国高遠たかとお藩主、保科正光の養子となる。養父である正光のあとを継いで高速藩主となった正之のことを、3代将軍家光が知る。正之が2歳の頃だという。跡目を争い、のちに自害にまで追い込んだ実弟の忠長への憎しみの反動だろうか、家光はこの異母弟正之をことのほか優遇した。そして正之の立ち居振る舞いに現れる聡明さと、家光に対する忠勤ぶりを愛したという。家光の信頼を得た正之は、家光を補佐して幕政にも参加するようになる。

家光逝去の際には、家光本人から「肥後(正之)よ、宗家をたのみおく」と遺言され、幼い4代将軍家綱の輔弼役を託される。家光の信頼の深さに感激した正之は、以後将軍家への忠義を誓い、20年もの間、国許会津へ帰らなかったという。正之は家光の信頼を裏切ることなく、将軍家綱を補佐した。「武家諸法度」に殉死の禁止を追加するなど善政を指導し、強権的だった武断政治路線を、文治政治に転換させた。

明暦の大火の際には16万両もの救援金を民衆に下賜かしし、玉川上水の開削により水を供給するなど民衆思いの政治家でもあった。正之は養父への義理立てから生涯、保科姓を通した。家紋も徳川家のシンボルであるあおいを使わず終生、保科家の紋を使った。

明暦の大火:明暦の大火で、江戸城も西の丸を残して焼失。天守閣は結局、再建されなかった。正之らが城のシンボルとしての価値しかない店主の再建に反対したからである。
参考

ビジュアル版 日本史1000人 下巻 -関ケ原の戦いから太平洋戦争の終結まで

幕藩体制の展開

幕政の安定

平和と秩序の確立

家綱政権

補佐役会津藩主・保科正之、大老・酒井忠清
課題由井(比)正雪の乱(慶安の変)を機に幕政の転換
①牢人対策:末期養子の禁止を緩和
②戦国遺風の廃止
・殉死の禁止、大名の人質(証人)の廃止
③諸法度の整備
・諸宗寺院法度、分地制限令
結果幕政の安定にともない、藩政の安定・領内経済の発展がはかられる
4代将軍家綱(在任:1651〜1680)

1651(慶安4)年の慶安の変後、幼い4代将軍家綱を支える大老酒井忠勝(1587〜1662)·老中松平信綱や叔父である後見人の保科正之(1611〜72)らの幕閣は、事件後、牢人の発生を防ぐため、御家断絶の原因になっていた末期養子の禁止を緩和した。それは、今後は当主が死に臨んだとき(末期)、その当主が50歳未満の場合には末期養子を入れて家の存続をはかることを許可したものである。ただし、50歳以上の当主に跡継ぎがなかった場合には、依然、末期迷子は禁止され続けた。

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