井伊直弼
井伊直弼(井伊直安画/豪徳寺蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

井伊直弼


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井伊直弼 いいなおすけ( A.D.1815〜A.D.1860)

彦根藩主。1858年、大老に就任。同年、勅許を得ず通商条約に調印し、将軍継嗣問題では南紀派として徳川慶福とくがわよしとみを推挙。朝廷や反対派大名の家臣などを弾圧する目的で安政の大獄を断行したが、桜田門外で暗殺された。

井伊直弼

彦根藩主。1858年、大老に就任。同年、勅許を得ず通商条約に調印し、将軍継嗣問題では南紀派として徳川慶福とくがわよしとみを推挙。朝廷や反対派大名の家臣などを弾圧する目的で安政の大獄を断行したが、桜田門外で暗殺された。

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安政の大獄で強権を振るった大老

学問と武芸に精進した北屋敷での不遇時代

井伊直弼いいなおすけは、譜代大名の最重鎮じゅうちんである井伊家の生まれである。当時の井伊家の家風では嫡子以外の部屋住みの子は他家に養子となって入るか、家臣に養われるかが例だったが、養子の口もない。わずか300俵の捨扶持すてぶちを与えられ、「北屋敷」と呼ばれたささやかな屋敷で15年あまりを過ごした。不遇の時代だったが、直弼は心身の鍛練に努め、兵学・居合・砲術といった武術から国学・書画・能などの学問芸術にいたるまで精通するようになったという。直弼の運命が変わったのは32歳のとき。藩主である兄の直亮なおあきの世子が急逝したため、養嗣子ようししに迎えられた。36歳で彦根藩主に就任。藩政改革に手腕を発揮し、ペリー来航にともなう江戸湾防備で活躍、声望を高めた。幕内では、ペリー来航に対して開国論を展開して、水戸藩の徳川斉昭とくがわなりあき攘夷論じょういろんと激しく対立する。将軍継嗣問題では斉昭の実子の一橋派に対抗し、南紀派として紀州の徳川家茂とくがわいえもち擁立を図った。

不遇時代:部屋住み時代の直弼は、世に出ることのない境遇を「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と歌に詠み、「埋木舎うもれぎのや」と名付けた住居で暮らした。

1858年(安政5)4月23日、直弼は南紀派の工作によって大老に就任。将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだい日米修好通商条約という2つの難問に取り組むこととなる。日米修好通商条約の調印は当初3月7日の予定だったが、老中の堀田正睦ほったまさよしによる勅許取得工作が失敗、7月に延期となっていた。その間、アメリカの軍艦2隻が下田に入港、アヘン戦争で清国に大勝した英仏連合艦隊が、余勢を駆って日本に襲来する可能性があるとの情報をもたらす。老練な外交官だった駐日領事ハリスは、軍艦で江戸湾内を廻航して幕府を威嚇いかく、さらに条約調印と引き換えに英仏との調停を約束して揺さぶりをかけた。1858年6月19日、ついに日米修好通商条約が締結された。関税自主権の否定、領事裁判権の付与といった不平等なものだったが、対外的孤立主義が許されない当時の国際情勢にあって、「勅許を得ない重罪は、甘んじて直弼ひとりがこれを受ける」と決断させるほどの苦渋の選択だったといえよう。その後、同様の条約をイギリス・オランダ・フランス・ロシアの4か国とも結ぶことになる(安政五カ国条約)。

沸騰する攘夷運動に対し安政の大獄で徹底弾圧

日米修好通商条約締結から6日後、直弼は諸大名を前に徳川家茂を将軍継嗣とすることを発表。雄藩との協調体制を推進する改革勢力を一掃し、幕府の権威回復を狙ったのである。しかし朝廷軽視の条約締結、継嗣決定にみられる直弼の独断専行は、攘夷派の憤激を買うだけであった。孝明天皇は激怒して退位を口にし、一橋派諸侯は反幕府の姿勢を強め、若者たちは盛んに志士活動を行った。ついには条約調印を批判し、諸藩の衆議を促す戊午の密勅ぼごのみっちょくが水戸藩に下り、これを幕府転覆の陰謀とみた直弼は、反対派の断固処罰を決定するのである(安政の大獄)。

桜田門外の変
大老彦根侯ヲ襲撃之図(月岡芳年画/江戸東京博物館/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

赤く染まった雪上に散った直弼の無念 1860年3月3日、元水戸藩士を中心とする尊攘志士十数名が、登城する直弼の駕籠を急襲。安政の大獄で怨みをかっていた直弼はあえない最期を遂げた。この事件により、幕府は求心力を失った。

徳川斉昭ら一橋派の諸侯は謹慎、岩瀬忠震いわせただなりら開明的な幕臣も処罰された。志士や公家に対する大弾圧も行い、志士たちは江戸に送られて詮議せんぎを受け、死罪や切腹など過酷な刑に処せられた。処罰者は100名を超えた。強権をもって治安回復を図った直弼だが、安政の大獄により攘夷運動は倒幕運動へと激化、開明的な人材を失った幕府も弱体化してしまう。1860年(安政7 ・万延1)3月3日朝、登城途中の直弼は、江戸城桜田門付近で尊攘派志士十数名の襲撃を受ける。供回りの徒士ら60余名は、急な出来事にろくに防戦もできず、刺客たちは直弼の乗る駕籠かごに何度も刀を突き立て、戸を破って直弼の首を落とした。大老として絶大な権力を振るった直弼は、凶刃によって46年の生涯を閉じた。

オウム戦法:一橋慶喜(徳川慶喜)は、日米の条約締結が勅諚ちょくじょう違反だとして直弼の責任を厳しく追及した。ところが直弼は何をいわれても「恐れ入り奉り候」の一点張り。平伏を繰り返し、追及をかわした。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

アジア諸地域の動揺

東アジアの激動

明治維新

19世紀になると、アメリカが日本を捕鯨船の補給基地と中国貿易の寄港地として目をつけるようになり、1853年、ペリー Perry (1794〜1858)の率いるアメリカ艦隊(黒船)が浦賀に来航し、日本の開港を求めた。幕府では開国か攘夷かをめぐって激しい対立があった。しかし老中阿部正弘(1819〜57)らは、開国は避けられぬ情勢にあると判断し、翌1854年、日米和親条約(神奈川条約)を締結して、下田・箱館(函館)の2港を開港した 。さらに初代アメリカ領事として着任したハリス Harris (1804〜78)が将軍に謁見して開国を求めると、アロー戦争の経過に強い衝撃をうけていた幕府は、大老井伊直弼(1815〜60)の主導下に、1858年、日米修好通商条約を締結した。ついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間にも同様の条約(安政五カ国条約)を結んで開港を断行した。これらの条約は、開港場の増加のほか、領事裁判権(治外法権)や関税自主権の喪失などを内容とする不平等条約であった。この条約は中国の南京条約北京条約のような敗戦による条約ではなかったため、賠償金支払いや領土の割譲はなく、アヘンも禁輸とされるなど、中国に比べれば不平等性は弱かった。

この後、イギリス・ロシア・オランダともほぼ同様な和親条約が締結された。
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