三好長慶
三好長慶像 部分(大徳寺聚光院蔵/京都国立博物館寄与)©Public Domain

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三好長慶 みよしながよし・ちょうけい( A.D.1522〜A.D.1564)

戦国大名。1533(天文2)年家督を継ぎ、管領細川晴元の被官となり、幕府に出仕。和泉、河内の代官をつとめたが、のち晴元と対立。将軍足利義晴・義輝父子と晴元は京を脱出し、長慶は入京し畿内を制圧。細川氏に代って権力を握り、上洛して将軍足利義輝を後見して三好氏全盛時代を現出した。その勢力は四国・畿内全域に及び、松永久秀を京都所司代に任じて京都を警備させたが、晩年には久秀に実権を奪われ、飯盛城で没した。

三好長慶

将軍・管領に対抗し畿内を平定した男

離合集散常なき混沌とした畿内情勢

三好長慶の父三好元長は管領細川晴元の被官だったが、讒訴ざんそによって晴元に責められ自害。父の死によって、長慶が家督を継いだ。1533年(天文2)、細川家中で家督争いが勃発し、晴元は阿波にいた長慶に援軍を求めてきた。父の敵ともいうべき男だったが、期するものがあったのだろう、長慶は大坂に向かい晴元の被官となり、幕府に出仕した。これ以後、48年までの15年間は、晴元のために畿内各地を転戦し戦功をあげる。1548年、長慶は父を讒訴した三好政長追討を晴元に請うが拒否され、ついに晴元に反抗。翌年、将軍足利義晴・義輝父子と晴元は京を脱出し、長慶は入京、畿内を制圧した。その後、長慶の勢力範囲は、五畿に加えて丹波・淡路・讃岐・阿波にまで及ぶ。幕府の実権もほぼ掌中に収め、絶頂期を迎える。しかし1561年、弟の十河一存そごうかずまさが病死。翌年には弟の三好義賢みよしよしかたが敗死し、京は六角氏の手に落ちた。長慶は河内に逃れたが、2年後には嫡子義興よしおきが病死と不幸が続く。

親族の死と敗戦に落胆した長慶は政治への興味を失い、家臣の松永久秀の暗躍を許すことになってしまう。長慶死後、三好氏の権威は失墜した。その遺領のほとんどは、久秀の自領となり、畿内の情勢は再び混沌となる。

阿波軍団:三好長慶による畿内平定の先兵となったのが彼の故郷阿波の武士である。渡海して畿内を存分に荒しまわる阿波兵を束ねたのが十河一存や三好義賢といった長慶の弟たちである。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで

武家社会の成長

戦国大名の登場

戦国大名

9代将軍義尚が近江の六角氏征討中に病死すると、足利義視あしかがよしみの子の足利義植あしかがよしたね義材よしき、1466〜1523)が10代将軍についたが、管領細川政元(1466〜1507)と対立し、1493(明応2)年に将軍の地位を追われ(明応の政変)、政元は堀越公方ほりごえくぼう足利政知あしかがまさとも(1435〜91)の子足利義澄あしかがよしずみ(1480〜1511)を新将軍の座に据えた。この政変によって将軍の権威は完全に失墜し、室町幕府における主導権は細川氏の手に移った。

しかし、その政元も細川氏内部の対立から暗殺され、以後、激しい権力争いが続いた。この争いのなかで幕府の実権は管領家細川氏からその家臣三好長慶みよしながよし(1522〜64)に移り、さらに長慶の家臣松永久秀まつながひさひで(1510〜77)へと移っていった。久秀らが13代将軍足利義輝あしかがよしてる(1536〜65)を暗殺した事件は、下剋上の世を象徴するできごとであった。このように京都を中心とする近畿地方で政治的混迷が続くなか、ほかの地方では、守護・守護代・国人など、さまざまな階層出身の武士たちが、自らの力で領国(分国ぶんこく)をつくりあげ、独自の支配を行う地方政権が誕生した。これが戦国大名であり、彼らが活躍した応仁の乱後の約1世紀を戦国時代という。

参考 詳説日本史研究

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