プランタジネット朝
13世紀ヘンルー2世とその子女ウィリアム,ヘンリー, リチャード, マチルダ, フェフリー, エレノア, ジョーン, ジョン Source Wikipedia ©Public Domain

プランタジネット朝


ノルマン朝

ランカスター朝

Previous Post

プランタジネット朝 A.D.1154〜A.D.1399
イングランド王国の王朝。ノルマン朝断絶の後を継いで、フランスのアンジュー伯アンリが1154年にイングランド王ヘンリー2世となり、1399年にリチャード2世が廃されるまで続いた。13世紀にマグナ・カルタの承認、モンフォール会議、模範議会の開催があり、議会制度の萌芽が見られた。14世紀には英仏百年戦争に突入し、フランス領土の拡張を目指したが、議会・貴族との対立を深め、ランカスター朝にかわった。

プランタジネット朝

世界史対照略年表(1300〜1800)
/>世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ

ヨーロッパ世界の形成と発展

ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ中世世界の変容

イギリスの封建社会と身分制議会
プランタジネット朝(1154〜1399)

しかし、12世紀半ばには王位をめぐる内乱がおこり、結果的にフランスのアンジュー伯がヘンリー2世(イングランド王)として即位し、プランタジネット朝を開いた。
ヘンリー2世はアキテーヌ侯のアリエノール・ダキテーヌと結婚するなどして、ほぼフランス西半部を領有し、大陸とイギリスにまたがる大帝国(アンジュー帝国)を建設した。また、対内的には行政・司法制度を整備して王権強化に努め、イギリス封建王政の盛期を現出した。

次の獅子心王リチャード1世(イングランド王)は、第3回十字軍 初期の十字軍 – 世界の歴史まっぷ)から帰国の途中オーストリア大公の捕虜となり、その身代金支払いや莫大な軍費負担に諸侯の不満はつのり、全面的な反抗を招くことになった。

アンジュー帝国の拡大地図
アンジュー帝国の拡大地図
続く欠地王ジョン(イングランド王)フィリップ2世(フランス王)と争い、ノルマンディーをはじめ大陸領の大半を喪失し(1204)、父王ヘンリー2世のアンジュー帝国を崩壊させた。また、カンタベリ大司教の任命を巡ってインノケンティウス3世(ローマ教皇)と対立して破門され、屈服するという失態を演じた( 教会の権威 – 世界の歴史まっぷ)。その後大陸の旧領の回復をはかったが、国内の貴族に軍役を拒否され、さらには彼らの反乱を招くことになった(1215)。これにはロンドン市民も同調したため、ジョン欠地王は譲歩し、貴族たちの要求する条項に調印した。これが、いわゆる大憲章(マグナ・カルタ)である。
大憲章(マグナ・カルタ)

1215年6月15日、ジョン(イングランド王)はロンドン西方のラニーミードで貴族と会見し、彼らの要求をのみ、大憲章として発布した。内容は、教会の自由、封建的負担の制限、国王役人の職権乱用防止、ロンドンその他の都市の特権、通商の自由、度量衡の統一など多岐にわたる。近世になって63ヶ条に整理されたが、もともとは貴族や市民などの権利を書きならべたものにすぎず、法典としての体系世は見られない。その意味で、大憲章は封建的慣習・特権を国王に再認識させ、国王の専横に歯止めをかけようとしたものととらえることができる。しかし、法の支配を明文化した点で高く評価され、イギリス立法政治の基礎をなした。

大陸領の喪失以来、貴族の間にはイギリス人としての国民感情が芽生えつつあったが、ジョン欠地王の次のヘンリー3世(イングランド王)はフランス貴族を重用するとともに、大陸政策に熱中して国内貴族の不満をかった。また、たびたび大憲章を無視して専制をおこなったため、シモン・ド・モンフォールら貴族の反乱を招き、1265年には従来の聖職者・貴族の集会に州騎士および都市市民の代表を加えた議会を招集することになった。これはイギリス議会の起源とされる。

次のエドワード1世(イングランド王)は、大ブリテン島の統一を目指してまずウェールズを征服、ついでスコットランドの遠征をはかったが、軍費調達の必要から1295年議会を招集した。これには、大貴族や高位聖職者と並んで、各州2名の騎士と各市2名の市民及び下級聖職者の代表も加わっており、模範議会と称された。その後14世紀を通じて、高位聖職者と大貴族、騎士と市民がそれぞれ合同して会議をもつようになり、イギリス議会は上院(貴族院)と下院(庶民院)の二院制議会として成長することになった。

フランスの封建社会と三部会
カペー朝(987〜1328)
フランスでは、カペー朝において典型的な封建社会( 封建制)が成立した。諸侯勢力が強大で、王領も北部を中心とする極めて狭い地域に限られていた。加えて12世紀の半ばには、イギリスに成立したプランタジネット朝によりフランスの国土の半分が領有されたため、カペー家のフランス統一は妨げられた。しかし、同世紀末に登場したフィリップ2世(フランス王)は、官僚制を整備して王領地の管理に努めるとともに、都市との結びつきを強めて諸侯を牽制し、王権の強化をはかった。そして、ジョン(イングランド王)との戦いや南フランスへのアルビジョワ十字軍などを通じて、王領地を西部や南部にも拡大していった。

13世紀半ばのルイ9世(フランス王)の治世には、内政・外交とも安定し、フランスは西ヨーロッパ国際政治の中心的地位を占めた。

アンジュー帝国の拡大地図
アンジュー帝国の拡大地図

参考 詳説世界史研究

アンジュー帝国

ヘンリー2世(イングランド王)はフランスに広大な所領を持ったままイングランド国王に即位し、アンジュー帝国と呼ばれる一大領邦群を形成した。
プランタジネット家はまた、フランス王侯諸家との血縁関係も強かった。そのため、フランス王室(カペー朝、ヴァロワ朝)との領地・王位を巡る争いが絶えることなく、百年戦争を招く結果となった。
歴代国王に失政が多かったと言われるのも、こうした「対フランス政策」に忙殺されざるを得ないという、同王朝特有の事情が引き起こした現象であるといわれている。ヘンリー2世以外の歴代の国王はフランス人としての意識も強く、特にヘンリーの息子であるリチャード1世(イングランド王)は、本来は兄若ヘンリーが王位を継ぐべき身で自身は母方のアキテーヌに最も執着したこともあり、イングランド統治への関心が低かったともいわれている。
しかし、12世紀半ばには王位をめぐる内乱がおこり、結果的にフランスのアンジュー伯がヘンリー2世(イングランド王)として即位し、プランタジネット朝を開いた。

歴代国王

  • ヘンリー2世(イングランド王)(在位:1154年 – 1189年)
    • 若ヘンリー(共同国王、在位:1170年 – 1183年)
  • リチャード1世(イングランド王)(獅子心王、在位:1189年 – 1199年)
  • ジョン(イングランド王)(欠地王、在位:1199年 – 1216年)
  • ヘンリー3世(イングランド王)(在位:1216年 – 1272年)
  • エドワード1世(イングランド王)(在位:1272年 – 1307年)
  • エドワード2世(イングランド王)(在位:1307年 – 1327年)
  • エドワード3世(イングランド王)(在位:1327年 – 1377年)
  • リチャード2世(イングランド王)(在位:1377年 – 1399年)

Wikipedia

広告
Previous Post