フン族
アラン族と戦うフン族 (ヨハン・ネポムク・ガイガー画/1873年) ©Public domain
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フン人 (Huns)

トルコ、モンゴル系の人々を起源とする騎馬遊牧民。匈奴の一部を含むと考えられている。4〜5世紀にかけて、中央アジアの草原地帯からヨーロッパへの侵攻をくりかえし、彼らの東ゴート人・西ゴートへの圧迫がゲルマン人の民族移動をひきおこした。アッティラ指揮下に大帝国を築いたが、その死後まもなく瓦解した。

フン族

  • 4世紀末〜5世紀にかけて、内陸アジアからヨーロッパへ西進した騎馬遊牧民。この移動が、ゲルマン諸族がローマ帝国領内へ移動するきっかけとなった。匈奴の一部が西進し、フンの支配層になったという説もある。
  • トルコ、モンゴル系の人々を起源とする騎馬遊牧民。匈奴の一部を含むと考えられている。4〜5世紀にかけて、中央アジアの草原地帯からヨーロッパへの侵攻をくりかえし、彼らの東ゴート人・西ゴートへの圧迫がゲルマン人の民族移動をひきおこした。アッティラ指揮下に大帝国を築いたが、その死後まもなく瓦解した。
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ヨーロッパ世界の形成と発展

ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ世界の成立

ゲルマン人の大移動とフン人
ヨーロッパにおける民族大移動の始まり地図
ヨーロッパにおける民族大移動の始まり地図 ©世界の歴史まっぷ

ゲルマン人の大移動をひきおこした間接的要因は土地不足であったが、直接的要因はアジア系遊牧民フン族(フン人)の圧力であった。

フン人は、確証されてはいないものの、匈奴(北匈奴)との同族説が有力である。

フン族は4世紀後半に南ロシアのステップ地帯を西進し、黒海北岸に定住していた東ゴート人を服従させた(375)。西ゴート人はこれを逃れ、大挙ドナウ川を渡ってローマ領内に侵入し保護を求めた。この事件を契機に、以後2世紀間に及ぶゲルマン人の大移動が始まるのである。ローマは西ゴート人を帝国の同盟者として領内への定着を許し、西ゴートはローマの主権を認めて国境防衛の任についた。しかし、いったんは定着した西ゴートも、さらに条件のよい土地を求めて、第二、第三の移動をおこなった。その背景にはローマの支配力の低下がある。
ほどなくローマは東西に分裂し(395)、北辺の防備がおろそかになると、ヴァンダル・ブルグント・フランクなどの諸部族がライン川を超えてガリア地方に侵入した。こうして、民族移動は西ヨーロッパにも波及することになった。

一方、ドナウ川中流のパンノニアに拠ったフン族は、アッティラ(位434〜453)の出現とともに急速に勢力を拡大し、一帯のゲルマン人やスラヴ人を従えて大帝国を建設した。
451年アッティラの軍が西ヨーロッパに侵入すると、西ローマ・西ゴート・ブルグント・フランクは連合して対抗し、カタラウヌムの戦いでこれを撃退した。アッティラは翌年さらにイタリアに侵入したが、レオ1世(ローマ教皇)との会見後撤退した。
フン帝国はアッティラの死後まもなく瓦解がかいするが、西ローマ帝国もそうした混乱の中で、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルにより滅ぼされた。

アッティラ

生年は406年ころ。434年伯父のルア王の死後、兄弟のブレダとともに王に即位、445年ブレダを倒して独裁者となった。そして、またたくまにカスピ海からバルト海にいたる領土を支配下においた。その進撃ぶりにヨーロッパ社会は恐慌をきたし、彼はきわめて残忍な人物として、ヨーロッパ人に記憶されることになった。だが、それはあくまで誇張されたイメージであり、その生活ぶりは遊牧民らしく質素で、厳格なものであったと伝えられる。

東ヨーロッパ世界の成立

初期ビザンツ帝国

初期ビザンツ帝国ではローマ的専制君主制が維持され、アドリアノープルの戦い(378)で西ゴート人に大敗を喫したものの、すぐに体勢を立て直し、その後のゲルマン諸部族やフン人・ササン朝などの攻勢をしのいで発展することになった。その初期の絶頂期を現出したのが、ユスティニアヌス1世(ユスティニアヌス朝)である。ユスティニアヌス1世は、即位5年目におこった首都市民の反乱(ニカの乱)をテオドラ(ユスティニアヌスの皇后)とともに鎮圧すると、将軍ベリサリウス、ナルセスらにゲルマン傭兵を主力とする部隊を率いて西地中海に遠征させ、ゲルマン人により奪われた旧ローマ帝国西半部の再征服を敢行した。

初期ビザンツ帝国 6世紀後半のヨーロッパ地図
6世紀後半のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

内陸アジア世界の変遷

内陸アジア
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

遊牧民とオアシス民の活動

スキタイと匈奴
匈奴とフン族

匈奴とフン族の関係については、両者の名称の類似(匈奴 Hiungnu / フン Huns)や民族性の一致(フンは「低い身長、幅広の顔、細い目、扁平な鼻」といったモンゴロイド系の特徴をもっていたと伝えられ、その言語はアルタイ系であったと認められる)、時期的な整合性などから、フンは西走した北匈奴の後裔とする説が有力である。しかし、内陸アジアの匈奴の墳墓から出土した人骨は、モンゴロイド系のものとユーロポイド系(ヨーロッパ人種)のものが混在しており、内陸アジアに移動した匈奴は、すでにさまざまな民族と混血して、複雑な人種的構成をもつにいたっていたらしい。この点は、ハンガリーのフン族の墳墓から出土した人骨についても同様である。おそらく、モンゴロイド系の匈奴は、西方への移動の途中でユーロポイド系の諸民族と混合し、さらにフィン族、スラヴ族などの諸民族とも融合しつつ、4世紀に南ロシア草原に出現した(これをヴォルガ・フンと呼ぶ)のではないかと推定される。

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フン族に含まれる民族

  • 8世紀末 アヴァール人
  • 10世紀半 マジャール人
  • 13世紀 モンゴル人

歴史上の記録

  • 中央アジアのステップ地帯が出拠と考えられるが、民族自体の出自についてはかなり以前より「フン」=「匈奴」説などがあるものの、いまだ定説となっていない。
  • フン族の領域拡大により、多くの民族が大移動することになる。

地図上の地名:アドリアノープルは英語表記で、ラテン語表記の Proelium Hadrianopolitanum = ハドリアノポリスのこと。

カタラウヌムの戦い 7.帝国の衰退とキリスト教の成立・発展 西ローマ帝国 ハドリアノポリスの戦い ゲルマン人の大移動とフン人 ゴート族 古代の終末 ハドリアノポリスの戦い 専制ローマ帝国 ヨーロッパにおける民族大移動の始まり地図
ヨーロッパにおける民族大移動の始まり地図 ©世界の歴史まっぷ
アラン族
  • フン族は、370年頃に黒海北方に到来する。
  • 紀元後にカスピ海沿岸から北カフカスを経て、黒海北岸のドン川流域に至る広大な地域を支配していたアラン族を襲撃する。
  • アラン族はフンの一部となって西の東西ゴート族侵攻に加わり、民族大移動の引き金となる。アラン族の一部はパンノニアを経て民族移動期にドナウ川流域から北イタリアに侵入し、一部はガリアに入植した。さらにその一部はバルバロイを統治するためにローマ人によってブリテン島へ派遣された。また、他の一部はイベリア半島を通過して北アフリカにまで到達した。
ゴート族
東ゴート族
  • 4世紀中ごろ、フン族は、黒海沿岸に定住していた東ゴート族を攻撃する。
  • 東ゴート族(グルツンギ)王・エルマナリクは自殺し、甥の息子のヴィティメールが後を継いだが、376年にヴィティメールはフン族とアラン族との戦いで戦死したため、東ゴート族の大半がフン族に服従した。
  • 残った東ゴート族の難民軍は、ローマ帝国国境付近のドナウ川湖畔に定住していた西ゴート王国の領域へ移動した。
西ゴート族
  • 東ゴート族の移動により居住地を奪われた西ゴート族は、武装解除した上で武装解除した上でドナウ川南岸へ移住する代わりに軍務に適した男を補助兵(アウクシリア)としてローマ帝国へ差し出すとともに、帝国内で農耕することを提案した。
  • 西ゴート族の提案は弱体化が進むローマ軍を増強し、ドナウ河畔一帯を再び農耕地帯とする可能性があったため、ウァレンスは彼らの提案を受け入れ、移住先にトラキア(現在のシリストラ付近)を用意した(フォエデラティ(同盟条約))。
  • 376年の夏から秋にかけて、フン族に侵略されたゴート族は、10万人規模でドナウ川北岸のローマ帝国国境線まで移動した。*A
東ローマ帝国
  • フン族は大規模にトラキアを攻撃し、アルメニアを蹂躙(じゅうりん)してカッパドキアを却略した。
  • シリアの一部に侵入してアンティオキアを脅かし、ユーフラテス属州を通って押し寄せた。
  • 皇帝・テオドシウス1世は軍隊を西方へ派遣していたためフン族は抵抗を受けることなく暴れ回る。
  • 398年、宦官エウトロペがローマ人とゴート人の軍隊をかき集めて撃退し、フン族は鎮圧される。
  • 405年、ラダガイスス率いる蛮族の集団のイタリア侵攻に、ウルディン(個人名が知られる初めてのフン族)はフン族とアラン族の集団を率いてイタリアを守るためにラダガイススと戦った。ウルディンはドナウ川周辺の東ローマ領で騒乱を起こしていたゴート族を破る。
  • 406年、ヴァンダル族、スエビ族そしてアラン族のガリア侵入にフン族も参加。(=フン族は西方へ移動)この時のフン族は一人の統治者元の一つの軍隊ではなく、多数のフン族が東西ローマ、そしてゴート族の傭兵として雇われていた。
  • 400年から401年頃、ゴート族のガイナスの首を斬った。ガイナスの首は贈物と引き換えに東ローマへ与えられてコンスタンティノープルで晒された。
  • 408年、東ローマはウルディンのフン族から再び圧力を感じ始めた。ウルディンはドナウ川を越えてモエシア属州のカストラ・マルティス要塞を攻略しし、トラキア一帯を略奪した。東ローマはウルディンを買収しようとしたが、彼の要求額が大きすぎて失敗し、代わりに彼の部下たちを買収した。これによりウルディンの陣営から多数が脱走し、ローマ軍に大敗を喫して撤退を余儀なくされた。それから程なく、ウルディンは死去する。
  • 409年、西ゴート王・アラリック1世の義弟アタウルフは、ジューリア・アルプス山脈南方でフン族の傭兵を雇っていた。彼らは皇帝・ホノリウスの最高法官オリンピウスに雇われた別のフン族の小集団と対峙した。
  • 409年後半、西ローマ帝国は、アラリックを防ぐためにイタリアとダルマチアに数千のフン族を駐留させたためアラリックはローマへ進軍する計画を放棄する。
  • 410年頃、フン族はドナウ川中流域の平原を制圧し、東ローマ帝国への侵入と略奪を繰り返す。
  • 430年頃、東ローマ皇帝・テオドシウス2世はフン族へ毎年金350ポンドの貢納金を支払う条約を結ぶ。
  • 一方で、フン族は西ローマ帝国の将軍・アエティウス(少年時代にフン族の人質となった経験を持つ)の傭兵となって帝国内の内戦やゲルマン諸族との戦争に参加。
  • 433年、フン族は西ローマ皇帝・ウァレンティニアヌス3世の母后ガッラ・プラキディアとの内戦状態にあったアエティウスとの取引により、軍事力提供の見返りにパンノニア(とイリュリクムの一部)の支配を西ローマ帝国に認められた。

フン族王・アッティラ

フン族 アッティラ レオ1世
『レオ1世とアッティラの会見』(ラファエロ画) ©Public domain
  • 434年、フン族・ルーア王が死去して、息子のブレダと甥のアッティラの兄弟が共同王位に就き、東ローマ帝国の貢納金を倍額にさせる有利な協定を結ぶ。
  • 440年、和平を破って東ローマ帝国へ侵入してバルカン半島一帯を侵略し、東ローマ帝国軍は敗退する。
  • 443年、皇帝・テオドシウス2世は莫大な貢納金の支払いを約束する条約の締結を余儀なくされる。
  • 445年頃、ブレダが死に、アッティラの単独統治となる。
  • 447年、アッティラは再び東ローマ領を侵攻して略奪を行い、東ローマ帝国軍を撃破する。
  • 451年、アッティラは西ローマ皇帝・ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に、大軍を率いてガリアに侵入する。カタラウヌムの戦いでアッティラは、アエティウス将軍が率いる西ローマ=西ゴート連合軍に敗れ撤退するが、勝ったローマ軍も西ゴート王テオドリック1世が戦死するなど損害も多く、追撃はできなかった。
  • 452年、体勢を立て直したアッティラはイタリア半島に侵入して北イタリア各地を却略するが、教皇・レオ1世の説得により引き返す。パンノニアに帰還したアッティラは、再度の東ローマ帝国侵攻を企図する。
  • 453年、自身の婚礼の祝宴の席で死亡する。ヨーロッパでは、ローマ教皇の忠告を守らなかったアッティラに神の天罰が下り死亡、残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして生まれ故郷の東方に帰っていった、という非常に有名な伝承が残っている。この事件をキリスト教が布教活動に利用、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになったとされる。
アッティラの死後のフン族
  • アッティラの死後、息子のエラクが兄弟のデンキジック、イルナックとの後継者争いに勝ってフン族の王となる。
  • 454年、フン族の従属部族たちがゲピド族長アルダリックの元に集結、ネダオ川でフン族に挑んだ(ネダオ川の戦い)。フン族が敗れ、エラク王も戦死したことによりヨーロッパにおけるフン族の覇権は終わり、それからほどなくして同時代の記録から彼らは消え失せた。
  • パンノニア平野は東ゴート族にトランシルヴァニアはゲピード族に占領され、その他の諸部族も中央ヨーロッパ各地に割拠した。

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