ピャスト朝
ピャスト朝時代のポーランド(992〜1025)Wikipedia

ピャスト朝


ピャスト朝( A.D.960〜A.D.1370)

10世紀にミェシュコ1世のもとでポーランド王国ピャスト朝を形成、カトリックを受容し、その子ボレスワフ1世の時代に首都グニェズノに大司教座を設置、神聖ローマ皇帝からポーランド国王の地位を認められた。宮廷の内紛が続いて豪族勢力の台頭を招き、11世紀後半にはいくつかの侯領に分裂、ドイツ人の東方植民が盛んになり、ドイツ騎兵団のプロイセン入植(1266)も行われた。13世紀末にヴワディスワフ1世とその子カジミェシュ3世により統一されたがシュレジエンをベーメンに奪われ、カジミェシュ3世の死後ピャスト朝は断絶した。

ピャスト朝

ヨーロッパ世界の形成と発展

東ヨーロッパ世界の成立

西スラヴ人の動向

ポーランド人は、10世紀にミェシュコ1世(位:960〜992)のもとでポーランド王国ピャスト朝(960頃〜1370)を形成するとカトリックを受容し、その子ボレスワフ1世(ポーランド王)(位:992~1025)の時代には首都グニェズノに大司教座を設置することに成功、まもなく神聖ローマ皇帝からポーランド国王の地位を認められるにいたった。しかし、その後宮廷の内紛が続いて豪族勢力の台頭を招き、11世紀後半にはいくつかの侯領に分裂し始めた。この間に首都は、荒廃したグニェズノからクラクフへと移った。分裂状態の中でドイツ人の東方植民が盛んになり、ドイツ騎兵団のプロイセン入植(1266)も行われた。
13世紀末になると統一への動きが活発化し、ヴワディスワフ1世(ポーランド王)とその子カジミェシュ3世(ポーランド王)(カシミール大王 位:1333〜1370)により統一が達成された。カシミール大王はドイツ騎士団と和約を結び、貨幣改革、法典の整備、クラクフ大学の創立などを行い、王権強化に努めたが、シロンスク(シュレジエン)をベーメンに奪われ、その死後ピャスト朝は断絶した。

クラクフ大学

ピャスト朝カジミェシュ3世(ポーランド王)により1364年創立されたポーランド最古の大学。中・東欧では、ベーメンのプラハ大学(1348年、カレル1世の創立)に次ぐ歴史を誇る。ヤギェウォ朝のもとで発展したため、ヤギェウォ大学とも称される。15世紀から16世紀にかけて、法学のほか天文学・数学・地理学などの分野で名を馳せ、特に地動説で有名なニコラウス・コペルニクス(1473〜1543)もここで学んでいる。

西スラヴ人の動向 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

歴代国王

  1. ミェシュコ1世(960年頃 – 992年) (ポラニェ族長)
  2. ボレスワフ1世(ポーランド王)(992年 – 1025年) (ポーランド王:1025年)
  3. ミェシュコ2世(ポーランド王)(1025年 – 1031年) (王位:1025年 – 1031年)
  4. ベスプリム(1031年 – 1032年)
  5. ミェシュコ2世(ポーランド王)(1032年 – 1034年) (復位)
  6. カジミェシュ1世(1034年(?) – 1058年)
  7. ボレスワフ2世(1058年 – 1079年) (王位:1076年 – 1079年)
  8. ヴワディスワフ1世ヘルマン(1079年 – 1102年)
  9. ズビクニェフ (1102年 – 1107年)
  10. ボレスワフ3世クシヴォウスティ (1102年 – 1138年)

分裂時代

ボレスワフ3世の遺言状により、国は各相続者に分割され、兄弟の最年長の者がクラクフ地方を治めると共に族長となった。この年長者相続制度は後に立ち行かなくなり破棄され、カジミェシュ2世が選挙によってクラクフ侯に選ばれた。

  1. ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ (1138年 – 1146年) (クラクフ侯)
  2. ボレスワフ4世 (1146年 – 1173年) (クラクフ侯)
  3. ミェシュコ3世 (1173年 – 1177年) (クラクフ侯)
  4. カジミェシュ2世 (1177年 – 1194年) (クラクフ侯)
  5. レシェク1世 (1194年 – 1202年) (クラクフ侯、白公)
  6. ヴワディスワフ3世ラスコノギ (1202年)
  7. レシェク1世 (1202年 – 1210年) (クラクフ侯)
  8. ミェシュコ1世プロントノギ (1210年 – 1211年)
  9. レシェク1世 (1211年 – 1227年)
  10. ヴワディスワフ3世 (1227年 – 1229年)
  11. コンラト1世(マゾフシェ公) (1229年 – 1232年)
  12. ヘンリク1世 (1232年 – 1238年) (クラクフ侯)
  13. ヘンリク2世 (1238年 – 1241年) (クラクフ侯)
  14. コンラト1世 (1241年 – 1243年)
  15. ボレスワフ5世 (1243年 – 1279年) (クラクフ侯)
  16. レシェク2世 (1279年 – 1288年、黒公)
  17. ヘンリク4世 (1288年 – 1290年) (クラクフ侯)

チェコのプシェミスル朝支配

1290年ポーランド大公プシェミスウ2世はヴァーツラフ2世にクラクフ公国の支配権を委ね、自身はポーランドの他地域における支配権獲得に専念して国内を統一し、1295年にポーランド王に即位した。

  1. ヴァーツラフ2世 (1291年 – 1305年) (ポーランド王:1300年 – 1305年)
  2. ヴァーツラフ3世 (1305年 – 1306年) (ポーランド王:1305年 – 1306年)

ピャスト家の再統一

  1. プシェミスウ2世 (290年 – 1296年) (ポズナン侯:1273年 – 1296年、ヴィエルコポルスカ侯:1279年 – 1296年、クラクフ侯:1290年 – 1291年、ポモージェ侯:1294年 – 1296年、ポーランド王:1295年 – 1296年)
  2. ヴワディスワフ1世(ポーランド王) (1306年 – 1333年) (クラクフ侯:1305年 – 1320年、ポーランド王:1320年 – 1333年)
  3. カジミェシュ3世(ポーランド王) (1333年 – 1370年)

参考 Wikipedia

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