ドレヒュス事件
ドレヒュスの裁判(Le Petit Journal/File:Dreyfus Petit Journal 1894.jpg – Wikimedia Commons)©Public Domain

ドレフュス事件


ドレフュス事件 Dretfys( A.D.1894〜A.D.1899)

ユダヤ系軍人ドレヒュス大尉に対する冤罪事件。仏国内で共和諸派が急進社会党を結成しカトリック教会に対し戦いを続け政教分離が進んだ。現在、国家による冤罪と人権抑圧に抗したジャーナリズムの物語として知られている。

ドレフュス事件

ユダヤ系軍人ドレヒュス大尉に対する冤罪事件。1894年ドレヒュスがドイツのスパイ容疑で終身刑を宣告されたが、96年に真犯人が判明した。その後、作家ゾラらの救援活動でドレヒュスは再審を勝ちとり、99年に恩赦され、1906年に無罪となった。この事件は内外に多大な影響をもたらし、国内では共和諸派が結集して急進社会党を結成し、カトリック教会に対する戦いを続け、政教分離が進んだ。国外では、キリスト教世界における反ユダヤ主義の根強さを認識したヘルツルによる、シオニズム運動開始のきっかけとなった。

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欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

ビスマルク外交
1870年代のヨーロッパ地図
1870年代のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

ビスマルクにとってもっっとも警戒を要したのはフランスであった。フランスはプロイセン=フランス戦争敗北以来ドイツに対する復讐心に燃えており、ブーランジェ事件(1887〜89)やドレフュス事件(1894〜99)の背後にはドイツに対する敵愾心てきがいしんがあった。領土的にもアルザス・ロレーヌ地方の問題が両国の間には横たわっていた。そのためビスマルクは「光栄ある孤立」を保っていたイギリスと協調・親善関係を維持し、イギリスとフランスの接近を防いだ。イギリスもまたアフリカにおいて縦断政策を推し進めていたので、横断政策を進めるフランスとは植民地獲得競争において敵対的関係にあった(アフリカ問題)。

ビスマルク外交による同盟網
ビスマルク外交による同盟網 ©世界の歴史まっぷ

19世紀欧米の文化

文学

フランスのゾラ Zola (1840〜1902)は『実験小説論』で自然主義文学の可能性を論じ、『居酒屋』のなかでは絶望的な庶民の生活と女性の生きざまを描き、さらに続編としての『娼婦ナナ』では下層階級出身のナナがその容貌によって上流階級に食いこみながらも最後には梅毒によって悲惨な死を迎える現実を描いてみせた。ゾラは現実の社会の動きにも敏感に対応し、ドレフュス事件では『私は弾劾する』というパンフレットを発行して共和制派として軍部を非難し、ドレフュスの再審を要求した。またモーパッサン Maupassant (1850〜93)はプロイセン=フランス戦争にも参加したが、フロベールに師事して写実主義を学び、『女の一生』のなかでは夫の無理解と粗暴に苦しむ救いようのない女性の生涯を描いた。

帝国主義とアジアの民族運動

帝国主義と列強の展開

資本主義の変質

列強諸国では産業の高度化にともなう急速な社会変化から国内の緊張が高まった。フランスではブーランジェ事件ドレフュス事件などの第三共和制を揺るがす事件が発生した。一方、各国の労働者は労働運動や社会主義運動を進めて体制変革を志向した。

フランス

1880年代末以降、この共和国は大衆を動員する左右の急進勢力の攻撃にさらされることになった。プロイセン=フランス戦争の屈辱的講和以来国民の間に広く存在していた対独復讐熱を背景に、折から不況に対する不満が重なって、元陸軍大臣ブーランジェ将軍 Boulanger (1837〜91)を中心に左右の急進勢力による反議会主義・反体制の大衆運動が盛り上がり、クーデタ寸前までいたった(ブーランジェ事件)。ついで、世紀末から20世紀初頭にかけて、ユダヤ人将校ドレフュス Drefus (1859〜1935)がドイツのスパイとして流刑に処された冤罪事件をきっかけとする左右両派の論争は共和国の存亡をかけた対立へと発展した。このドレフュス事件は国民の間の根強い反ユダヤ主義と対独報復熱という排外ナショナリズムが結びついたものであった。しかし、これらの危機を乗り越えてからは、小党分立のなかでも中道派の急進社会党 を中心に議会政治が確立した。パリ=コミューンで打撃をこうむった社会主義勢力と労働運動も90年代に復活した。1905年、マルクス主義から改良主義まで含む社会主義諸派はフランス社会党に結集し、議会による社会主義の実現をめざすことになり、議会政治を支える一翼を担った。他方、労働組合は直接行動とゼネストに社会革命をめざすサンディカリスム Syndicalism の路線をとり、共和国内の反体制派を形成した。しかし、フランスにおいては社会党も労働組合もドイツやイギリスに比べて組織的には弱体であった。また、カトリック教会は一貫して保守勢力の一部を形成してきたが、1905年の政教分離法は宗教に対する国家の援助をいっさい排除した。この法により宗教はあくまでも私的事柄となり、聖職者の政治活動は禁止され、共和国は政治的安定を確実にした。

急進社会党は1901年に結成された。「社会党」の名が含まれているが、フランス革命のジャコバン派の伝統を引きつぎ、地方農民と都市の小市民(手工業者)を基盤とする。人権擁護と政教分離などを綱領に掲げる。

ドレフュス事件事件

1894年秋、ユダヤ人の将校ドレフュスはドイツのスパイ容疑で逮捕され、軍事法廷により悪魔島への終身流刑の判決をうけた。ドレフュスがもとドイツ領のアルザス出身のユダヤ人であることが法廷の予断を生んだ。その後、真犯人はドレフュスの同僚の将校であり、軍が証拠を捏造したことが明らかになったにもかかわらず再審請求の道は開けなかった。1898年、作家のゾラが大統領宛に「私は告発する」の公開質問状を発表し、軍部の不正を告発すると、冤罪事件を主張する知識人・学生・共和派の政治家が結集した。これに対し、極右の国家主義者・反ユダヤ主義者・カトリック派などは国家の秩序と安定を優先して軍部の名誉を擁護した。こうして、ドレフュス事件は、真犯人探しというミステリー部分の解明は後景に退き、共和国の存立を問う事件となった。

1899年には軍法会議は再び有罪判決を下し軍部の権威を優先させた。しかし、大統領が特赦を与えて、ドレフュスを解放させた。だが、特赦はあくまでも政治的決着をはかったものであり、ドレフュスが最終的に無罪判決を勝ち取ったのは1906年のことであった。ドレフュス派対反ドレフュス派の対立は平和主義か軍国主義か、国際主義かナショナリズムかの争いとなり、これに反ユダヤ主義や共和国と教会の対立も加わって共和国の政治は激しく動揺したが、ドレフュスが再審を勝ち取ったことで軍の民主化や政教分離が進んだ。

日本で昭和前期に軍部の力が強まり言論統制が厳しくなる情勢のもとで、大佛次郎おさらぎじろうがこの事件をとりあげたように、今ではドレフュス事件は国家による冤罪と人権抑圧に抗したジャーナリズムの物語としてよく知られている。

帝国主義時代のヨーロッパ諸国 フランス

フランス国内フランス国外
1871
パリ=コミューン1870プロイセン=フランス戦争(〜71)
1875第三共和国憲法1878ベルリン会議
1881チュニジア占領
1882西アフリカでサモリ帝国の抵抗始まる(〜98)
1883ベトナム保護国化(ユエ条約)
1884ベルリン=コンゴ会議(〜85)
1884清仏戦争(〜85)
1887ブーランジェ事件(〜89)1887フランス領インドシナ連邦成立
1889第2インターナショナル結成(パリ 〜1914)
パリ万博博覧会
1894ドレフュス事件(〜99)1894露仏同盟完成
1895フランス労働総同盟結成 → サンディカリズム1895フランス領西アフリカ成立
1896マダガスカル、領有
1898ファショダ事件
1904英仏協商締結
1905フランス社会党結成(ジョレス)
政教分離法発布
1905第1次モロッコ事件
1906アルヘシラス会議
1911第2次モロッコ事件
1912モロッコ保護国化
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