ステファン・ネマニャ
The fresco of young Saint Simeon, King`s Church in Studenica, Serbia ©Public Domain

ステファン・ネマニャ


ステファン・ネマニャ( A.D.1113〜A.D.1200)
セルビア王国(中世)ネマニッチ朝の創始者(在位1171年 - 1196年)。兄を殺してセルビア侯として即位し、セルビアの諸部族を統一。宗主であった東ローマ帝国との長い戦いに勝利し、1171年、独立の君主、セルビア王ステファン1世として即位しネマニッチ朝を開いた。退位後、修道士としてセルビア正教会の建設に尽力する(聖シメオン)。

ステファン・ネマニャ

1171年独立の君主、セルビア王ステファン1世として即位しネマニッチ朝を開いた時点では「王」は自称であり、国際的には「侯」の扱いを脱しなかった。その後はブルガリアの独立を支援するなど、東ローマ帝国と徹底して対立、抗争を繰り広げたが、その一方でギリシア正教会を保護するなどもしている。1196年、高齢を理由に退位して修道士となった(シメオンと改名)。その後は末子ラストゥコ(聖サヴァ サワ(セルビア大主教))と共に独立セルビア教会の建設に尽力し、またヒランダル修道院を建築するなどしてセルビア文化の発展に尽くした。死後、正教会から列聖され、聖シメオンと呼ばれた。

ジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院

当時のセルビア王国の首都ラス近郊、ラシュカの支配者ステファン・ネマニャが1168年に創設した。修道院には創建当時の12世紀に遡る会食堂、共同寝室、貯水槽、入り口の塔の壁などの遺跡群が残っている。修道院の没落は、オスマン帝国によってセルビアが占領された14世紀末に始まり、1912年に始まった第一次バルカン戦争の中で破壊された。修道院、特に聖ゲオルギウス聖堂には13世紀に遡る優れたフレスコ画があったが、損壊が酷く、大部分はベオグラードの国立博物館に移管されている。
ジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院は、1979年にスタリ・ラスの遺跡やソポチャニ修道院とともに、「スタリ・ラスとソポチャニ」の一部としてユネスコの世界遺産に登録された。

参考 Wikipedia

ヨーロッパ世界の形成と発展

東ヨーロッパ世界の成立
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

東ヨーロッパ世界の成立

南スラヴ人の動向

バルカン半島に南下した南スラヴ人の多くは、その地を支配していたビザンツ帝国に服属し、ギリシア正教を受け入れていった。

そのうち、セルビア人は長らく部族国家の状態に位あったが、11世紀後半には王国を形成し(セルビア王国(中世))(1171〜1346)、12世紀後半ネマニッチ朝を創始したステファン・ネマニャ(位:1171〜1196)によりビザンツ帝国からの独立を達成した。そして、14世紀前半のステファン・ウロシュ4世ドゥシャン(位1331〜1355)の時代に最盛期に達し、セルビア教会は大主教座から総主教座に昇格、領土はスコピエを都とするセルビアのほかに、アルバニア・マケドニア・ギリシアの一部にまでおよんだ。彼らは自ら「セルビア人・ギリシア人の皇帝」を宣言、ビザンツ皇帝にとってかわろうとしたが果たせず、死後その領土は分裂した。そして、当方から進出してきたオスマン帝国にコソボの戦い(1389)で決定的な敗北を喫し、1459年にはその支配下に入った。

南スラヴ人の動向 – 世界の歴史まっぷ

スラヴ人の移動と東欧地域の宗教地図 ©世界の歴史まっぷ
スラヴ人の移動と東欧地域の宗教地図 ©世界の歴史まっぷ
モスクワ大公国 ブルガリア帝国 セルビア王国(中世) 南スラヴ人の動向 後期ビザンツ帝国 1360年ころの東ヨーロッパ地図
1360年ころの東ヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

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