シャルル6世(フランス王)
シャルル6世(フランス王) (Auguste de Creuse・作/フォンテーヌブロー宮殿・蔵) ©Public Domain

シャルル6世(フランス王)


シャルル6世(フランス王) A.D.1368〜A.D.1422

フランス・ヴァロワ朝第4代国王(在位1380年 - 1422年)。第3代国王シャルル5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの長男。親愛王、狂気王と呼ばれた。娘のキャサリン・オブ・ヴァロワ(カトリーヌ)はヘンリー5世(イングランド王)と結婚しヘンリー6世を産み、息子のシャルル7世はヴァロワ朝第5代国王となる。

シャルル6世(フランス王)

生涯

  • 1368年: シャルル5世とその王妃ジャンヌ・ド・ブルボン(遺伝性の精神病を持つ家系)の間に生まれる。
  • 1380年: 父王シャルル5世が食中毒で急死し、王位を継承する。
  • 1392年: 寵臣であったフランス王軍司令官オリヴィエ・ド・クリッソンの暗殺未遂事件が起こり、シャルル6世は興奮して首謀者と見られたジャン4世(ブルターニュ公)の討伐軍を自ら率いた。しかし、ブルターニュ遠征の途中で出会った狂人に「裏切り者がいる」との暗示を受け、ある兵士が槍を取り落とした音に驚いて発狂し、周りの者に斬りかかった。この時、同行していた叔父のフィリップ2世(ブルゴーニュ公)は、後に対立することになる王弟ルイ・ド・ヴァロワ(オルレアン公)に「逃げろ、甥よ」と声をかけたといわれる。その後一旦回復したが、不安定な精神状態が続く。
  • 1393年1月28日には「燃える人の舞踏会」(Le Bal des ardents)事件。(王妃イザボー・ド・バヴィエールは侍女の一人の婚礼を祝して、大規模な仮装舞踏会(モレスコ、morisco)を開催した。シャルル6世と5人の貴族は亜麻と松脂で体を覆い、毛むくじゃらの森の野蛮人(ウッドウォード)に扮して互いを鎖で繋いで踊る「野蛮人の踊り」(Bal des sauvages)をしようとしたが、たいまつに近づきすぎて衣裳が燃え上がり、シャルル6世はベリー公夫人ジャンヌ・ド・ブローニュのとっさの機転で助かったものの、4人が焼死するという事件。)シャルル6世はその後、急速に精神を病む。
  • 精神異常のため、シャルル6世は事実上政務を執ることが不可能となり、フィリップ2世(ブルゴーニュ公)や息子のジャン1世(ブルゴーニュ公)を中心とするブルゴーニュ派と、王弟ルイ・ド・ヴァロワ(オルレアン公)と息子シャルル・ド・ヴァロワ(オルレアン公)を中心としシャルル6世を支持するアルマニャック派に宮廷内部が分裂し、主導権を巡って争うことになった。このようなフランスの状勢を見て、ヘンリー5世(イングランド王)は、アルマニャック派を支援しながらその裏でブルゴーニュ派と提携するなど、両派の争いに巧みに介入した。
  • 1415年: ヘンリー5世(イングランド王)はシャルル6世(フランス王)に対し、支援の見返りとしてフランス王位の継承権譲渡とフランス領土の割譲、さらに多額の賠償金を要求。アルマニャック派がこれを拒絶すると、ヘンリー5世はすかさずイングランド軍を率いてフランス北部に侵攻。ヘンリー5世の勢いは凄まじくフランス軍は各地で連戦連敗、10月25日のアジャンクールの戦いで大敗したアルマニャック派はオルレアン公らが捕虜となる大打撃を受けた。
  • 1415年: 王太子ルイ・ド・ギュイエンヌ死去。
  • 1417年: ルイに代わる王太子ジャン・ド・ヴァロワ(トゥーレーヌ公)死去。
  • 1419年: このため両派に和解の動きが起こったが、アルマニャック派を代表する王太子シャルル(後のシャルル7世(フランス王))が和解交渉の会見においてジャン1世(ブルゴーニュ公)を殺害したため、その跡を継いだフィリップ3世(ブルゴーニュ公)はイングランドと同盟して王太子シャルルと全面的に対立。
  • 1420年: フィリップ3世(ブルゴーニュ公)はトロワ条約を結んでヘンリー5世(イングランド王)のフランス王位継承を支持。これにより、ヘンリー5世とシャルル6世の娘キャサリン・オブ・ヴァロワとの結婚と、シャルル6世(フランス王)の死後は王太子シャルルではなくヘンリー5世(イングランド王)がフランス王位を継承することなどが定められた。
  • 1422年8月: ヘンリー5世(イングランド王)は、現実に王位を継承することなく死去。
  • 同年10月21日: シャルル6世(フランス王)病死。シャルル6世の治世は42年の長きにわたったが、精神障害によってその治世のほとんどは家臣団やイングランドに左右される時代となった。

子女

  • シャルル(1386年) – 王太子
  • ジャンヌ(1388年 – 1390年)
  • イザベラ・オブ・ヴァロワ(1389年 – 1409年) – 1396年にリチャード2世(イングランド王)と結婚、1406年にシャルル・ド・ヴァロワ(オルレアン公)と再婚
  • ジャンヌ・ド・フランス(1391-1433)(1391年 – 1433年) – 1396年にジャン5世(ブルターニュ公)と結婚
  • シャルル(1392年 – 1398年) – 王太子
  • マリー(1393年 – 1438年) – ポワシー女子修道院長
  • ミシェル・ド・フランス(1393年 – 1422年) – 1409年にフィリップ3世(ブルゴーニュ公)と結婚
  • ルイ・ド・ギュイエンヌ(1397年 – 1415年) – ギュイエンヌ公、王太子
  • ジャン・ド・ヴァロワ(トゥーレーヌ公)(1398年 – 1417年) – トゥーレーヌ公、王太子
  • キャサリン・オブ・ヴァロワ(1401年 – 1437年) – 1420年にヘンリー5世(イングランド王)と結婚、死別後オウエン・テューダーと事実婚。ヘンリー6世(イングランド王)の母、ヘンリー7世(イングランド王)の祖母。
  • シャルル7世(フランス王)(1403年 – 1461年) – フランス王
  • フィリップ(1407年)

参考 Wikipedia

ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ中世世界の変容
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ中世世界の変容

後期百年戦争とフランスの集権化

フランスではシャルル6世(フランス王)(位1380〜1422)が狂気の発作を起こすようになり、国内はオルレアン公・アルマニャック伯側とブルゴーニュ公側に別れて内乱状態に陥った。またイギリスでは、エドワード3世(イングランド王)に次いで即位したリチャード2世(イングランド王)がワット・タイラーの乱鎮圧後次第に専制化して諸侯や議会の反発を招き、ついにランカスター公のヘンリー(ヘンリー4世(イングランド王))により王位を追われ、ランカスター朝の成立を見ることになった。

1415年、ヘンリー5世(イングランド王)はフランスの内乱に乗じてノルマンディーに侵入し、ブルゴーニュ派と結びアザンクールでフランス王軍に大勝(1415 アジャンクールの戦い)、トロワ条約(1420)により自らのフランス王位継承権を認めさせることに成功した。
その結果、1422年ヘンリー5世(イングランド王)とシャルル6世(フランス王)が相次いで没すると、ヘンリーの子ヘンリー6世(イングランド王)は、英仏両国の国王として即位した。
だがその支配地域は北部に限られ、東部はブルゴーニュ公、ロワール川南部はトロワ条約により王位継承権を否認されたヴァロワ家のシャルル7世がそれぞれ支配し、フランスは3分されることになった。
1429年、イギリス軍は南下をはかり、ロワール川中流の要衝オルレアンを攻囲(オルレアン攻囲戦)、持久戦の様相を示していた。ここに登場した少女ジャンヌ・ダルクは、わずかの兵を率いてオルレアンの囲みを解き、いっきに北上してランスを陥れ、シャルル7世(フランス王)の戴冠式を実現させた。
後期百年戦争とフランスの集権化 – 世界の歴史まっぷ

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