シハーブッディーン・ムハンマド
シハーブッディーン・ムハンマド像 ©Public Domain

シハーブッディーン・ムハンマド


シハーブッディーン・ムハンマド( A.D.1149〜A.D.1206)
ゴール朝の君主(在位1202年 - 1206年)。イラン系を称するゴール朝の宗主ギヤースッディーン・ムハンマドの弟。兄がガズナ朝の首都ガズナを攻め落し、ゴール朝のガズナ政権の君主を委ねられ、南方拡大を進め、タラーインの戦いでラージプート諸王の連合軍に勝利した。

シハーブッディーン・ムハンマド

イスラーム世界の形成と発展

イスラム王朝 17.イスラーム世界の発展 イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化

デリーのムスリム政権
8世紀初め、ムハンマド・ビン・カーシム率いるウマイヤ朝のアラブ軍が、海陸の両路からインダス川下流域に侵入したが、ムスリムはその後3世紀間インド内部に進出することはなかった。
彼らがインド史上に大きな影響を及ぼすようになったのは、アフガニスタンにトルコ系のガズナ朝とイラン系を称するゴール朝が相ついでおこってからである。
これら両王朝は10世紀末からインド侵入をくりかえし、分裂抗争していたラージプート諸王国を撃破した。マフムード(ガズナ朝)、ゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマドの遠征はとくに名高い。彼らの侵入ははじめ略奪を目的としたものであり、財宝や奴隷を手に入れるとアフガン台地に引き揚げていたが、やがてインド内部にとどまり、土地と人民を永続的に支配するようになった
ガズナ朝とゴール朝のインド侵入地図
ガズナ朝とゴール朝のインド侵入地図 ©世界の歴史まっぷ

デリーのムスリム政権 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

生涯

北インドにおける史上最初のムスリムによる安定支配を樹立したシハーブッディーンは、インド史の文脈でムハンマド・ゴーリー(محمد غوري Muhammad Ghārī)、すなわち「ゴールのムハンマド」という名で知られる。尊称(ラカブ)はムイッズッディーンとも称した。

  • 1173年 兄ギヤースッディーンがガズナ朝の首都ガズナを攻め落とした後、兄からガズナの支配を委ねられゴール朝のガズナ政権を樹立。
  • 1175年 パンジャーブ地方に進出。1186年にパンジャーブ地方の都市ラホールに存続していたガズナ朝の残存勢力を完全に滅ぼす。
  • 1191年 ラージプートの支配する北西インドへの侵攻(タラーインの戦い 1191, 1192)
  • 1193年 デリーまで勢力下に収めた後、アフガニスタン方面に戻って兄ギヤースッディーンのホラーサーン地方への進出を助ける。この間、インド方面を留守にしたシハーブッディーンに代わってベンガルまで進出し北インドの征服を進めたのがクトゥブッディーン・アイバクらの腹心のマムルークたちであり、後の奴隷王朝自立への間接的なきっかけをつくった。
  • 1203年 ギヤースッディーンが死去すると、その本拠地であるホラーサーンに移り、兄の遺児に代わって全ゴール朝の宗主となるが、ギヤースッディーンと長年戦ってきたホラズム・シャー朝やカラ・キタイ(西遼)の反攻を受けて、ホラーサーンの大部分を失った。シハーブッディーンはホラーサーンを奪われ、奪還を図ったが成功せず。
  • 1206年 インド遠征の途上で陣没した。ゴール朝に敵対するホラーサーンのイスマーイール派(シーア派の一派)の放った刺客によってシハーブッディーンは暗殺されたと言われる。
  • 死後 シハーブッディーン・ムハンマドの死後、ゴール人、アフガン人、マムルークなどの部下たちが次々と自立し、急速に統一を失ったゴール朝はわずか9年後の1215年に滅亡することとなる。

参考 Wikipedia

広告