ヒンドゥー教とイスラーム教 クトゥブ・ミナール クトゥブッディーン・アイバク
アイバクが建造したミナレット。クトゥブ・ミナール 世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」 (写真: Wikipedia)

クトゥブッディーン・アイバク


クトゥブッディーン・アイバク (?〜1210年)

マムルーク(奴隷軍人)出身の武将で、ゴール朝シハーブッディーン・ムハンマドのもとで北・中央インドを征服し、ゴール領の総督となった。シハーブッディーンが暗殺されると、インド最初のイスラーム王朝を創始した(在位1206年6月27日 - 1210年)。後継者にも奴隷出身者が多かったため、この王朝は奴隷王朝と呼ばれる。

クトゥブッディーン・アイバク

インド初のイスラーム系奴隷王朝

インド、奴隷王朝の創始者。トルコ人で奴隷出身の軍人。君主が暗殺され、自らが王となった。インド最初のイスラーム制服国家を構築した。

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イスラーム世界の形成と発展

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イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化

デリーのムスリム政権

1206年に、奴隷出身の部将クトゥブッディーン・アイバクが、君主であるゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマドの暗殺事件に乗じて同王朝のインド領を奪い、デリーを都とするインド最初のイスラーム王朝を創始した。後継者にも奴隷出身者が多かったため、この王朝は奴隷王朝と呼ばれる。
その後の320年間に、デリーにはハルジー朝トゥグルク朝サイイド朝ロディー朝と、ムスリム王朝が交替した。奴隷王朝の時代にアッバース朝のカリフからスルタンの称号をえたため、これら5王朝はデリー・スルターン朝と総称される。
ロディー朝がアフガン系であるほかは、いずれもトルコ系の王朝である。

デリーのムスリム政権 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

生涯

出世

中央ユーラシアのテュルク系遊牧民、キプチャクの出身で、アイバクの名はテュルク語で「月の主」を意味する。父母に関しては不明である。
幼少のころ、ホラーサーン(現在のイラン東北部)の都市ニーシャープールで名家に奴隷として売られて軍人教育を受けたあと、シハーブッディーン・ムハンマドに購入されて、宮廷に仕えるマムルークとなった。クトゥブッディーン・アイバクは厩舎係からやがて将軍に出世すると、ゴール朝の諸君主の中ではインド方面の経略を担当したシハーブッディーンに従いインドでの戦役に従軍、ヒンドゥースタン(北インド)のラージプート諸勢力との戦いに功績を立てた。1193年にデリーを攻略したシハーブッディーンが兄・ギヤースッディーン・ムハンマドのいるホラーサーンに活動の拠点を移すと、アイバクはデリーの支配を委ねられ、北インドの征服をほとんど完了させた。1202年にはカーリンジャルを落として中央インドを征服し、さらにベンガルまで進軍して占領しインド仏教の拠点であったヴィクラマシーラ僧院を破壊してゴール朝のインド支配に貢献した。

1206年、アイバクはシハーブッディーンより「ペシャワールの門からインドの最も奥地まで」のゴール領の総督に任命された。それから2、3週間後の3月に主君のシハーブッディーンが暗殺されてゴール朝が統一を失うと、アイバクは6月に自らスルタンを称して事実上デリーに独立、インドを本拠地とし、インドのみを支配する史上初のイスラム王朝である奴隷王朝を開いた。
アイバクは、ゴール朝の分裂にともなう混乱と争奪の中でアフガニスタンとデリーの中間に位置するパンジャーブ地方を併合することに成功する。さらにイルトゥトゥミシュに娘を嫁がせ、シンド地方の総督であったナースィル・ウッディーン・カバーチャに姉妹を嫁がせ、自らはケルマーンの総督であるタージ・ウッディーン・ヤルドーズの娘を妻として迎えて権力の基盤を固めた。

最後

1210年、アイバクはポロ競技中の落馬事故が原因で急死した。アイバクが落馬したとき、乗っていた馬がアイバクの身体の上に倒れこみ、鞍の前橋がアイバクの胸を突き抜けたという。

死後

アイバクの死後、その子であるアーラーム・シャーが即位するが、アイバクの娘婿であるマムルークの将軍のイルトゥトゥミシュとの後継者争いとなって翌年に敗死してアイバク家は2代で終焉し、以降50年ほどにわたって奴隷王朝はイルトゥトゥミシュ家の世襲支配が続く。

参考 Wikipedia

建築

  • クトゥブ・ミナール:世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」
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