ムラービト朝 ルーム・セルジューク朝 ムラービト朝 ガズナ朝 11世紀後半のイスラーム世界地図
11世紀後半のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ
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ガズナ朝 (955年/977年〜1187年)
現在のアフガニスタンのガズナ(ガズニー)を首都として、アフガニスタンからホラーサーンやインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝
11世紀初めころから北インドへの侵入を開始し、ガズナ朝第3代君主マフムードは、インド中西部のソムナートまで遠征して、「イスラームの擁護者」の名声を獲得した。

ガズナ朝

イスラーム世界の形成と発展

イスラム王朝 17.イスラーム世界の発展 イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

イスラーム世界の発展

東方イスラーム世界
ガズナ朝 11世紀後半のイスラーム世界地図
11世紀後半のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ

アフガニスタンにおこったガズナ朝(962〜1186)は、11世紀初めころから北インドへの侵入を開始し、ガズナ朝第3代君主マフムード(ガズナ朝)(998〜1030)は、インド中西部のソムナートまで遠征して、「イスラームの擁護者」の名声を獲得した。

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歴史

サーマーン朝からの半独立

サーマーン朝のアブド・アル=マリク1世に仕えていたテュルク系マムルーク(奴隷軍人)出身の有力アミール(将軍)だったアルプテギーンが、マリク1世の死後に失脚して、955年にガズナで半独立化して立てた政権を基礎としている。

アフガニスタン支配の確立

アルプテギーンのマムルークで、ガズナ政権の第5代君主となったサブク・ティギーン(在位977年〜997年)のとき勢力を拡張し、サーマーン朝に代わって現在のアフガニスタンの大部分を支配するようになり、南のパンジャーブにも進出した。スブクティギーンより政権の世襲が始まるため、スブクティギーンを王朝の初代に数えることが多い。

マフムードのインド侵攻

サブク・ティギーンの死後、998年に弟イスマーイール(在位997年〜998年 )を倒して即位したマフムード(ガズナ朝)(在位998年〜1030年)のとき、ガズナ朝は最盛期を迎えた。
マフムード(ガズナ朝)はサーマーン朝に対する攻撃を強めてこれを滅亡に追いやり、イラン方面のホラーサーンに勢力を広げるとともに、パンジャーブから本格的にインドに進んで北インドやグジャラートに対して17回にわたる遠征を連年行った。
異教徒に対するジハード(聖戦)の名目のもとに行われた遠征により、ガズナ朝は1018年にはカナウジのプラティハーラ朝を滅ぼすなど勢力をインドに大きく広げるとともに、ヒンドゥー教の寺院などを破壊・略奪して戦利品として莫大な富をガズナへと持ち帰った。マフムードの治世において、ガズナ朝の領域は北は中央アジアのサマルカンドに及び、西はクルディスタン、カスピ海から東はガンジス川に至るまで広がって、ガズナ朝のマフムードの権威は鳴り響いた。

マフムードの遠征を支えたガズナ朝の軍隊の中核は、テュルク系主体のマムルークからなっていた。文化面では、行政の実務はペルシア人の官僚が担当したので、ペルシア語が公用語になり、マフムードの時代には、その惜しみない援助を頼って『シャー・ナーメ』で名高い詩人フィルダウスィーを初めとする文人たちがガズナに集い、マフムードのもとでペルシア語文学が大いに盛行した。首都ガズナもまた繁栄を極め、文人たちはその壮麗さと征服者マフムードの名を称えた。その盛名は、ガズナ、ガズナ朝といえば、マフムードの名と永遠に結びつくといわれるほどである。マフムードが1030年に亡くなると、広大に過ぎる征服地を維持することはできなかった。

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セルジューク朝の台頭

マフムードの後を継いだ息子のマスウード1世(在位1031年から1041年)は、1040年に新興のセルジューク朝にダンダーナカーンの戦いで敗れ、ホラーサーンなど支配領域の西半を失った。

その後、ガズナ朝はイブラーヒーム(在位1059年〜1099年)の治世に幾分か勢いをとりもどしたが、かつてのような栄光や力はもはや失われ、12世紀前半にはホラーサーンを本拠地としたセルジューク朝のアフマド・サンジャル(在位1118年〜1157年)に臣従して貢納を行うほどであった。

滅亡

1150年、もとガズナ朝の宗主権下にある地方政権に過ぎなかったゴール朝によって、首都ガズナは陥落させられ、その略奪によってガズナの繁栄も地に落ちることとなった。ガズナ朝の残部はインドに南下してパンジャーブ地方のラホールでしばらく生きながらえたが、1186年に至り、ついにゴール朝によって滅ぼされた。

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