アカデメイア
プラトン時代のアカデメイアを描いたポンペイのモザイク画 ©Public domain

アカデメイア


アカデメイア
古代ギリシアのアテナイ北西部郊外にあった、英雄アカデモスの聖林(森)に因む神域であり、リュケイオン、キュノサルゲス等と並ぶ、代表的なギュムナシオン(体育場)の所在地。
紀元前387年(コリントス戦争終了後)、プラトンがここに学園を開設した。

アカデメイア

プラトンの学園

学科

算術、幾何学、天文学等を学び一定の予備的訓練を経てから理想的な統治者が受けるべき哲学を教授した。
特に、幾何学は、感覚ではなく、思惟(しい)によって知ることを訓練するために必須不可欠のものであるとの位置付けで、学校の入り口の門には「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」との額が掲げられていた。

これらの学科や、問答法(弁証術、ディアレクティケー)を専ら学ぶことの必要性、また、これらが「哲人王」「夜の会議」といった国制・法律を保全し、その目的(善・徳)を達成すべく国家を主導していく人々に必要な教育である理由は、『国家』や『法律』等で、詳しく説明されている。

継承

プラトンの死後、学頭の地位は甥(姉の子)スペウシッポスが継いだ。
アカデメイアの学頭は、プラトン(前388-前348)、スペウシッポス(前348-前339)、クセノクラテス(前339-前314)、ポレモン(前314-前270)、クラテス(前270-前265)、アルケシラオス(前265-前241)、カルネアデス、シュリアノス、プロクロス、マリノス(哲学者) 、ダマスキオスである。

時期によって学説に相違があり、古アカデメイア派、中期アカデメイア派、新アカデメイア派等何期かに分かれる。スペウシッポスの時期には数学偏重の傾向が見られた。末期アカデメイア派は懐疑論が主流となってストア派と対立し、当時のアカデメイア派は懐疑論者と同義に使われた。

東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世の非キリスト教的学校の閉鎖政策によって、アカデメイアは529年にその歴史を閉じた。

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