高句麗 羅唐同盟 三国時代(朝鮮半島) 5世紀末三国時代(朝鮮半島)地図
5世紀末三国時代(朝鮮半島)地図 ©世界の歴史まっぷ
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高句麗 (紀元前37年〜668年)

高句麗こうくりまたは高麗は、現在の中国東北部の南部から朝鮮半島北中部の、ツングース系民族による国家。
最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。三国時代(朝鮮)に新羅や百済と共に朝鮮半島を割拠し、隋や唐等の中国王朝や倭国と勢力を争った。

高句麗

律令国家の形成

飛鳥の朝廷

東アジアの動向とヤマト政権の発展
朝鮮半島では、5世紀に入ると、中国の北朝に朝貢を続けていた高句麗と、南朝に朝貢を続けていた百済との間に、激しい争いがおこった。
475年には、高句麗は百済の王城である漢城を攻め落し、百済王を殺すにいたった。百済は、王城を南の熊津ゆうしんに遷し、さらに538年には南方の扶余ふよに遷都して半島南部の加耶かやの地へと勢力を広げていった。
この頃には、加耶諸国の自立の動きもめざましく、ヤマト政権の加耶地域における影響は失われていき、512年には加耶西部の地域が百済の支配下に入った。
一方、6世紀に入って急速に国家体制を固めていった新羅も、百済との抗争の中、562年には残った加耶諸国を併合するにいたり、ここにヤマト政権の半島南部への影響力は後退した。
6世紀の朝鮮半島地図
6世紀の朝鮮半島地図 ©世界の歴史まっぷ
東アジア諸国との交渉

中国東北部からおこった高句麗は、次第に朝鮮半島北部にまで領土を拡大し、313年には中国の植民地であった楽浪郡を滅ぼした。
また、朝鮮半島南部では、3世紀には馬韓・弁韓・辰韓という小国の連合が形成されていたが、4世紀になると馬韓から百済が、辰韓から新羅がおこり、それぞれ国家を形成した。ただ弁韓は統一されることなく、加耶(加羅)と呼ばれる小国連合が5〜6世紀まで続いた。

さらに4世紀後半になると、高句麗がさらに南進策を進めるようになり、新羅や百済・加耶を圧迫するようになった。鉄資源を確保するため早くから加耶と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)も、百済・加耶とともに高句麗と戦うこととなった。

当時、高句麗の都であった丸都がんと(中国吉林省集安)にある高句麗の好太王碑(広開土王碑)の碑文には、倭が高句麗と直接交戦したことが記されている。

好太王碑は、高句麗の好太王(広開土王)一代の事業を記した高さ6.34mの大きな石碑で、その中に「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」(百済新羅は旧是れ属民なり。由来朝貢す。而るに倭、辛卯の年(391年)よりこのかた、海を渡りて百済を破り新羅…し、以って臣民と為す。)と記されている。

この朝鮮半島における高句麗の騎馬軍団との戦いは、それまで乗馬の風習がなかった倭人たちに、いやおうなしに騎馬の技術を学ばせたようで、馬具が百済や加耶などからもたらされるとともに、百済・加耶の技術者を呼んで日本列島でも馬具や馬匹の生産が開始される。
こうして5世紀になると日本列島の古墳にも、それまで見られなかった馬具が副葬されるようになるのである。
またこの戦乱を逃れた多くの渡来人が海を渡って、乗馬の風習以外にも様々な技術や文化を倭国に伝えた。

推古朝の政治

そのころ中国では、北朝からおこった隋王朝が、589年、南朝の陳王朝を滅ぼして、およそ400年ぶりに統一王朝が成立した。
隋王朝は律令制を整備するとともに、周辺諸国への圧迫を強め、598年以降、数次にわたって高句麗へ大軍を派遣した。朝鮮3国や倭国では、この世界帝国の強圧に対処するための権力集中の必要に迫られた。

飛鳥文化
仏像

仏教が人々の心に深い印象を残したのは、その世界宗教としての教理よりも、壮大な寺院建築や、厳かに輝く仏像によるところが大きい。当時の仏像彫刻(飛鳥仏)は、中国の北朝の様式を受け継いだもの(北魏様式)と、南朝の様式を受け継いだもの(南梁様式)とに分類できる。それぞれ、高句麗・百済を経て倭国に伝わったものであろう。

絵画

絵画では、610年曇徴どんちょうが高句麗から紙・墨の製法、彩色の技法を伝えた。当時の遺品としては、法隆寺の玉虫厨子たまむしのずし須弥座しゅみざ絵(施身聞偈図せしんもんげず捨身飼虎図しゃしんしこず)、及び扉絵がある。

アジア・アメリカの古代文明

中国の古代文明

新と後漢

新(中国)(8〜23)をたてた王莽おうもうは、周の政治を理想として『周礼しゅうらい』などの儒教の経典に基づいて政治をおこない、官制や貨幣制度を改め、全国の土地を国有にし、奴隷の売買を禁じ、また商工業を統制した。その極端な復古主義の政策は社会の実情に合わず、農民や豪族の反抗を招いた。対外的にも、匈奴や西域諸国、高句麗などが離反した。こうした政治の混乱のなかで農民の反乱(赤眉の乱せきびのらん 18〜27)がおこり、それに乗じた地方豪族の反乱もおこって、都の長安は陥落し、王莽は殺されて新はわずか15年で滅亡した(23)。

律令国家の成立

律令国家への道

朝鮮半島では、655年、高句麗と百済が連合して、新羅に侵攻した。新羅は唐に救済を求め、高宗(唐)は660(斉明天皇6)年、まず百済に出兵して、その都扶余ふよを陥れ、百済の義慈王は降伏した。
ここに百済は滅亡したが、各地に残る百済の遺臣たちは、百済の復興に立ち上がり、倭国に滞在していた百済の王子豊璋ほうしょう(生没年不詳)の送還と援軍の派遣を要請してきた。

斉明天皇さいめいてんのう(在位655〜661, 皇極天皇が重祚ちょうそした)と中大兄皇子は、百済を復興して朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと考え、百済救済の大軍を派遣することに決した。
661年中大兄皇子は斉明天皇とともに筑紫に出征し、斉明天皇の死後は、大王の位につかないまま、戦争指導を行った。
662年に大軍を渡海させたが、翌663(天智天皇2)年、白村江の戦いにおいて唐・新羅の連合軍に大敗した。

664(天智天皇3)年、中大兄皇子は、甲子の宣かっしのせんを出して国政改革を断行した。これは豪族を大氏・小氏・伴造とものみやつこに再編成するとともに、民部かきべ家部やかべの領有民を確認して諸豪族との融和につとめるものであった。また、国土の防衛にも専念し、対馬・壱岐や九州北部に防人さきもりとぶひをおき、筑紫に水城みずきを築いた。
665年からは、筑紫太宰の周辺や瀬戸内海沿岸から大和にかけて、大野城・基肄城きいじょう・長門城・高安城などの朝鮮式山城を築造した。
667年には、都を飛鳥から近江大津宮おおつのみやに遷し、翌668年に中大兄皇子が正式に即位して(天智天皇てんじてんのう)、国土防衛と国制の整備につとめることになった。

この間、唐・新羅連合軍は668年に高句麗を滅ぼしたものの、朝鮮半島支配をめぐって対立した。670年からは戦争状態に入ったのち、676年に結局、新羅は唐の勢力を駆逐して半島を統一する

白鳳文化

絵画では、法隆寺金堂壁画が、インドのアジャンター石窟群の壁画や中国の敦煌石窟壁画の様式を取り入れた傑作である。また、高松塚古墳壁画は、石室の天井に星宿せいしゅく、壁面に四神や男女群像を極彩色で描いたもので、高句麗の古墳壁画の影響を受けている。

白鳳文化
高松塚古墳壁画 Source Wikipedia
高松塚古墳

奈良県明日香村にある終末期古墳で、直径18m 高さ5mの円墳。凝灰岩の切石を組み合わせた横口式石槨をもつ。
石室の壁面に漆喰が塗られ、天井中央部に天極五星、四鋪四星しほしせいと二十八宿の星辰、東壁面に日像と青龍、男女各4人の人物群像、西壁面に月像と白虎、男女各4人の人物群像、北壁面に玄武の壁画が描かれていた(南壁面は盗掘口あり、壁面は確認されなかったが、元々は朱雀が描かれていた)。
石槨内に星辰、日月、四柛、人物群像を描いた古墳は、高句麗にもみられるものである。壁画は高句麗系の4人の画師の手になるものと推定されている。
星辰や日月を配した世界観、海獣葡萄鏡や銀装大刀などの豪華な副葬品、終末期古墳という時期などから、成人男子の人骨とされる被葬者は7世紀末から8世紀初頭に死去した天武天皇の息子のうちの一人と考える説が有力である。
なお、同じ明日香村のキトラ古墳にも、四獣や星宿が描かれていることが確認されたが、両者とも劣化する壁画の保存が大きな課題となっている。

参考

詳説日本史研究

東アジア世界の形成と発展

高句麗
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

北方民族の活動と中国の分裂

分裂の時代
晋(西晋)の建国

魏・蜀・呉の3国が中国を三分することになった三国時代で、3国のうちもっとも優勢であったのは、華北の大半を支配した魏であった。魏は、後漢末から遼東地方(中国の東北地方)に自立していた公孫氏の政権を倒し、高句麗を討ち、朝鮮の楽浪・帯方の2郡も抑えて領域に加え、やがて蜀も滅ぼした(263)。

西晋 東アジア世界の形成と発展
西晋の領域 @Wikipedia
五胡十六国と南北朝
北朝

北魏は、北方の遊牧民の柔然じゅうぜんを攻撃してこの勢力を弱めたので、西域の諸国や東北の高句麗も朝貢した。南朝の宋に対しては、軍事的にはおおむね優勢を保ち、淮河わいがもしくは長江を境界とした。

南北朝時代(中国)地図
南北朝時代(中国)地図 ©世界の歴史まっぷ
周辺国家の形成
紀元前1世紀ころ中国東北地方の南部におこったツングース系の高句麗こうくりは、3世紀半ばに魏によって遼東りょうとう公孫こうそん氏が滅ぼされると、これに乗じて朝鮮半島の北部一帯に勢力をのばし、313年には前漢以来続いてきた中国勢力の拠点である楽浪郡を滅ぼした。
4世紀後半の高句麗第19代王・広開土王こうかいどおう好太王)のときから隆盛期を迎え、その子の長寿王のときには都を鴨緑江おうりょくこう中流の丸都城がんとじょう集安しゅうあん)から大同江畔の平壌へいじょうに移し、遼東地方を領有して強盛となった。高句麗は北魏に朝貢するとともに南朝とも通交した。
3世紀の東アジア地図
3世紀の東アジア地図 ©世界の歴史まっぷ
3世紀初の朝鮮半島地図
3世紀初の朝鮮半島地図 ©世界の歴史まっぷ
5世紀初の朝鮮半島地図
5世紀初の朝鮮半島地図 ©世界の歴史まっぷ

東アジア文化圏の形成

隋の統一

6世紀末(南北朝時代)に北周では外戚の楊堅ようけんが実権を握り、581年に北周を倒して帝位(文帝)につき、国号を隋(王朝)とした。

文帝の子の煬帝ようだいは、江南の杭州こうしゅうから華北の涿郡たくぐん(現北京)にいたる大運河を完成させ、万里の長城を修築するなど、大規模な土木工事を次々におこなった。
大運河は、中国の北と南をひとつに結びつける画期的な意義をもつ事業であったが、多くの農民を徴発・酷使しておこなわれたため、農村は疲弊し、民衆の不満は高まった。
また、煬帝は外征にも力を注ぎ、東突厥や高句麗、ベトナムの林邑りんゆう(チャンパー)などへの遠征をおこなったが、これらも民衆の困苦を増やすものであった。
こうして、3回にわたる高句麗遠征(610、612、614)が、高句麗の激しい抵抗にあって失敗に終わると、各地で農民反乱がおこり、煬帝は江南に逃亡したあげく、混乱のなかで殺害され、隋はわずか38年で滅んだ(618)。
隋の統一地図
隋の統一地図 ©世界の歴史まっぷ
唐の建国と発展
7世紀おわりの世界地図
7世紀おわりの世界地図 ©世界の歴史まっぷ

太宗から次の高宗(唐)の時代は、唐(王朝)第一の盛時であり、唐は世界的な大帝国へと発展していった。高宗時代(唐)には、西は西突厥を大破して滅亡に追い込み、アラル海にいたる西域を支配下におさめ、東は新羅と結んで、高句麗・百済を滅ぼすなど、唐(王朝)領土は最大に達した。
唐は、領土内の異民族に対しては、それぞれの部族長に唐朝の官爵を与えて、間接的に諸部族を支配する羈縻政策きびせいさくを採用し、これら諸部族に対する統治・監視機関として、辺境に六都護符(安西・北庭・安北・単于・安東・安南)を設置した。

唐文化の波及と東アジア諸国

唐代に完成された律令などの制度や仏教に代表される文化は、日本を含む東アジア諸国に大きな影響を与え、これら諸国の国家形成に大きな役割を果たした。この時代を東アジア文化圏形成の時代と呼ぶのは、こうした唐文化の波及による。この時代の諸国は積極的に唐文化の摂取に努め、その影響はきわめて大きい。

朝鮮半島では高句麗・百済新羅の3国が鼎立ていりつし、これに日本が進出を企てるという状況であった。中国に統一国家ができると、隋・唐ともに高句麗に遠征軍を送り、攻撃を加えたが、高句麗はよく持ちこたえた。そこで唐は新羅と結ぶこととし、百済(660)・高句麗(668)をつぎつぎと滅ぼした。

渤海

渤海ぼっかい(698〜926)は、高句麗の遺民大祚榮だいそえいがツングース系靺鞨族まっかつぞくを統一して、現在の中国東北地方に建国した。698年震国しんこくと称し、713年唐に朝貢して渤海郡王に封ぜられたので、以後渤海と称した。唐の文化を積極的にとりいれ「海東の盛国」と呼ばれ、日本ともひんぱんに交流した。都を上京竜泉府じょうけいりゅうせんふにおき、中国式の都城を営んだ。のちに契丹によって滅ぼされた。

参考

詳説世界史研究

歴代王

  1. 東明聖王(ツングース民族、在位紀元前37-紀元前19年)
  2. 瑠璃明王(紀元前19-紀元18年)
  3. 大武神王(18-44)
  4. 閔中王(44-48)
  5. 慕本王(48-53)
  6. 太祖大王(53-146)
  7. 次大王(146-165)
  8. 新大王(165-179)
  9. 故国川王(179-197)
  10. 山上王(197-227)
  11. 東川王(227-248)
  12. 中川王(248-270)
  13. 西川王(270-292)
  14. 烽上王(292-300)
  15. 美川王(300-331)
  16. 故国原王(331-371)
  17. 小獣林王(371-384)
  18. 故国壌王(384-391)
  19. 広開土王(好太王、391-413)
  20. 長寿王(413-491)
  21. 文咨明王(491-519)
  22. 安臧王(519-531)
  23. 安原王(531-545)
  24. 陽原王(545-559)
  25. 平原王(559-590)
  26. 嬰陽王(590-618)
  27. 栄留王(618-642)
  28. 宝蔵王(642-668)
高句麗王系図
高句麗王系図 ファイル:Genealogy of Goguryeo.png – Wikipedia ©Public Domain

参考 Wikipedia

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