遼(契丹), 北宋

モンゴル帝国

南宋, 東遼, 大真国

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金(王朝) (1115〜1234)

中国の北半を支配した女真族の征服王朝。女真族完顔部の族長だった阿骨打あくだが建国。遼(契丹)・北宋を滅ぼし(靖康の変)、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国に滅ぼされた。

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金(王朝)

首都:会寧、燕京

東アジア世界の形成と発展

東アジア世界の形成と発展
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

東アジア諸地域の自立化

金の成立と西遼
中国東北地方の東部にある松花江しょうかこうの中流一帯で、半農・半牧の生活を営んでいたツングース系の女真じょしん族は、約200年にわたって遼(遼朝)の圧政下にあった。
やがて完顔部わんやんぶの首長である阿骨打あぐだは、急速に女真族の統一を進め、1115年、遼から自立して金(金朝 1115〜1234)を建国し、都を会寧府かいねいふ(現黒竜江省ハルビン市阿城区南白城)に定めた。
1114年、阿骨打は寧江州の戦いで遼軍を敗北させた。
12世紀のアジア地図
12世紀のアジア地図 ©世界の歴史まっぷ
宋の南遷と金の華北支配

北宋は、燕雲十六州の奪回をはかり、新興の金朝と同盟を結んで遼朝を挟撃し、1125年、これを滅ぼした。しかし、戦費の支払いなどをめぐって北宋は背信行為を重ね、これに怒った金朝は大軍を南下させて北宋の都開封を攻囲した。

1114年、阿骨打あぐだ寧江州の戦いねいこうしゅうのたたかいで遼軍を敗北させた。

1126年、金朝はさらなる北宋の違約を責めて開封を占領し、翌1127年、上皇徽宗きそうや皇帝欽宗(宋)をはじめとする皇族や重臣3千余人を捕らえて北方に連れ去り、ここに北宋は滅んだ(靖康の変せいこうのへん)。

こうして華北一帯は金軍に占拠されたが、欽宗(宋)の弟趙構ちょうこうは江南に走り、皇帝に即位し(高宗)、杭州に都を置いて臨安りんあんと改称し、江南に拠って金朝に対抗した。これを南宋(1127〜1279<1276>)と呼ぶ。その後、南宋の内部では金朝に対する主戦派と和平派が対立するが、宰相秦檜しんかいの主導する和平派が、徹底抗戦を唱える武将岳飛がくひらを抑え、1142年、南宋は金朝に多額の歳貢さいこう(毎年銀25万両・絹25万匹)を贈るとともに、臣下の礼をとるという屈辱的な和議を結んだ(紹興の和約しょうこうのわやく)。こうして南宋は、大散関だいさんかん淮河わいが(淮水)を結ぶ線を国境とし、華北を完全に放棄することで両国に平和が訪れた。金朝は中国東北地方から内モンゴル・華北に広がる地域を支配した。

太祖(金)完顔阿骨打わんやんあぐだは、遼朝の二重統治体制を採用し、女真族固有の部族制(軍事組織)である猛安もうあん謀克ぼうこく(ミンガン・ムケ)を再編して、軍事・行政制度とし、これをもって女真人をおさめ、また漢人には中国式の州県制を用いてこれを統治した。

猛安・謀克

猛安もうあんは女真語で千を意味するミンガン、謀克ぼうこく邑長ゆうちょうを意味するムケの音訳であるといわれている。謀克は300戸からなり、その長も同じく謀克と称した。また10謀克をもって1猛安を組織し、その長も猛安とした。
この組織は軍事的機能をもち、戦時には1謀克から100名の兵士をだして1謀克軍を編成し、10謀克で1猛安を編成した。

第4代海陵王かいりょうおう(金)は、たびたび南宋攻略を試みるとともに、中国文化を愛好し、1153年、燕京えんけい(中都大興府と改称、現北京)に遷都して、中国風の専制国家を樹立しようとした。
その後、世宗(金)が擁立されると、再び南宋と講話し、しばらく平和を保った。

世宗(金)は1165年、南宋と再講和し、歳貢を銀20万両・絹20万匹に減額した。

しかし、華北に南下定住した女真族はしだいに中国文化の影響をうけ、民族の伝統的気風を失っていった。また相つぐ戦乱は王朝の財政をおおいに窮迫させ、とくに海陵王(金)の南宋攻略のときには、戦費調達のために初めて紙幣(交鈔こうしょう)が発行された。
それ以後、財政の窮乏を切り抜けるために、大量の交鈔を発行せざるをえなくなり、その結果、激しいインフレーションを引き起こし、経済は破綻し、王朝の衰亡をはやめた。

やがてチンギス=ハンの意思をついだモンゴル帝国第2代皇帝オゴタイが華北に侵入し(第二次対金戦争)、金朝の都の汴京べんけい(現開封・モンゴルの侵攻を恐れて1214年に燕京から遷都した)を包囲すると、第9代皇帝哀宗(金)は、いったん汴京から脱出したが、モンゴルと南宋に挟撃されて自殺し、1234年金朝は第9代120年で滅亡した。

金朝では女真人の中国文化への同化を防ぐため、漢字と契丹文字をもとに独自の女真文字がつくられた。これは太祖阿骨打あぐだの時代に契丹文字と漢字をもとに考案された大字と、のちにこれを簡略化した小字からなっているが、まだ十分に解読されていない。

女真語は、アルタイ語族のツングース語系に属し、満州語にもっとも近い。女真文字の大字は表意、小字は表音文字で、両者とりまぜて使用されたとする説が有力である。なお、文字の体系は、ほぼ解明されつつある。
西夏文字と女真文字

西夏文字の大部分は、表意文字で、現在でな6,000字ほどが知られ、旧ソ連、中国や日本の研究者によってほぼ解読されている。また発音も西夏人の残した辞典や、漢字・チベット文字・梵字ぼんじとの対訳刻文によって明らかになった。

女真文字は、太祖阿骨打の時代に考案された大字と、1138年にこれを簡略化した小字からなっている。現在までに内外の研究者によって、女真文字の一部は、漢字をそのまま借用した表意語であり、一部には表音文字が使われたことが判明している。

宋の南遷と金の華北支配 – 世界の歴史まっぷ

参考

系図

金(王朝)
金系図
  1. 太祖(阿骨打=アクダ、完顔旻 1115年 – 1123年)世祖・劾里鉢=ガリベチの次子。
  2. 太宗(呉乞買=ウキマイ、完顔晟 1123年 – 1135年)劾里鉢の四子。太祖の末弟。
  3. 熙宗(合剌=ホラ、完顔亶 1135年 – 1149年)太祖の嫡子繩果=ヒェンガ(徽宗/完顔宗峻)の長子。
  4. 海陵煬王(迪古乃=テクナイ、完顔亮 1149年 – 1161年)太祖の庶長子斡本=オベン(完顔宗幹)の次子。
  5. 世宗(烏禄=ウル、完顔雍 1161年 – 1189年)太祖の庶子訛里朶=オリド(睿宗/完顔宗堯)の嫡子。
  6. 章宗(麻達葛=マダガ、完顔璟 1189年 – 1208年)世宗の次子胡土瓦=クトゥハ(顕宗/宣孝太子・完顔允恭)の次子。
  7. 衛紹王(果縄=ガヒェン、完顔永済・允済=ユンジ 字・興勝=シンシャン、1208年 – 1213年)世宗の七子。章宗の叔父。
  8. 宣宗(吾睹補=ウトゥプ、完顔珣 1213年 – 1223年)胡土瓦(完顔允恭)の庶長子。章宗の異母兄。
  9. 哀宗(寧甲速=ニンキャス、完顔守緒(守礼)) 1223年 – 1234年)宣宗の三子。別称:義宗。
  10. 末帝(呼敦=ホトン、完顔承麟)1234年、太祖の長兄、康宗・烏雅束=ウヤスの末裔。

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