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第一次世界大戦中のヨーロッパ ©世界の歴史まっぷ
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第一次世界大戦 (A.D.1914〜A.D.1918)

協商国27カ国と同盟国4カ国の間で戦われた史上初の世界戦争。各地で激化した列強の利害対立を背景に戦争は長期化、総力戦となり新兵器の投入により甚大な被害をもたらし、ヨーロッパの陥落を目の当たりに現出させた。

第一次世界大戦

A.D.1914〜A.D.1918 協商国27カ国と同盟国4カ国のあいだでたたかわれた史上初の世界戦争。戦争が世界規模に拡大した背景には、各地で激化していた列強の利害対立があった。戦争は長期化、総力戦となり、新兵器の投入により甚大な被害をもたらした。戦争の舞台となったヨーロッパの荒廃、植民地での民族主義勃興など、様々な影響をおよぼした。

日本は日英同盟を根拠に、連合国 側から参戦したが、当初、参戦には慎重で、8月15日にドイツに最後通牒的な勧告をおくり、23日の宣戦までに時間を置いた。

参考 世界史用語集

戦争データ

年月日:1914年7月28日〜1918年11月11日
場所:ヨーロッパ、中東、アフリカ、中国、太平洋
結果連合国協商国)の勝利
交戦勢力
連合国
フランス共和国
イギリス帝国
ロシア帝国
セルビア王国
モンテネグロ王国
ベルギー
日本
イタリア王国
ルーマニア王国
ポルトガル共和国
アメリカ合衆国
ギリシャ王国
中華民国(北京政府)
同盟国
ドイツ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国
オスマン帝国
ブルガリア王国
指導者
ジョルジュ・クレマンソー
レイモン・ポアンカレ
フェルディナン・フォッシュ
ジョージ5世
ハーバート・ヘンリー・アスキス
ホレイショ・ハーバート・キッチナー
デビッド・ロイド・ジョージ
ニコライ2世
ペータル1世
ニコラ1世
アルベール1世
大正天皇
大隈重信
寺内正毅
原敬
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
ヴィットーリオ・オルランド
フェルディナンド1世
ウッドロウ・ウィルソン
アレクサンドロス1世
段祺瑞
ヴィルヘルム2世
パウル・フォン・ヒンデンブルク
エーリヒ・ルーデンドルフ
ヘルムート・フォン・モルトケ
フランツ・ヨーゼフ1世
カール1世
メフメト5世
メフメト6世
三人のパシャ
フェルディナンド1世

参考

12章 欧米における近代社会の成長

フランス革命とナポレオン

フランス革命への問い

革命期における人命の損失は、第ー次世界大戦がフランスにもたらしたものをうわまわる。1789年から99年の間の虐殺と戦争による死者は少なくみても60万、ナポレオン時代の死者は90万。この間の人的損失はフランスの人口の5%である。ちなみに、1914~18年の第一次世界大戦の場合の人的損失はフランスの人口の3.5%であった。

13章 欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

女性解放運動

19世紀の後半になって、女性の社会的・法律的地位の改善が本格化した。財産権の確立、離婚法の改正、妻の地位に関する法的保護、長子相続世や私生児の廃止、最低賃金と労働時間の改善などが少しずつではあるが社会的地位に変化がみられるようになり、男性と対等に初等教育から高等教育にいたるまで教育が普及し、次第に女性にも種々の職業が解放され、芸術であれ学問であれさまざまな分野で女性の才能が開花した。とくに、20世紀に入ってからの第一次世界大戦で男性が戦場に行っているあいだ工場で働いた女性は、力仕事でさえ男性と遜色なく仕事ができることに自信をもち、女性の社会進出は決定的となった。

15章 帝国アジア主義とアジアの民族運動

帝国主義と列強の展開

19世紀末になると、資本主義諸国では第2次産業革命と呼ばれる「石油と電力」を基軸とする技術革新が進展して巨大企業が生まれ、資本の独占化が進んだ。帝国主義列強はこの技術革新を背景に巨大な生産力をもち、軍事的優位を確立して、植民地や勢力圏を確保するための海外進出をおこなった。この結果、アジアはタイと日本をのぞき列強の植民地または半植民地にされ、アフリカの分割も進み、さらに太平洋地域の島々さえも分割された。従属させられた地域は、農産物・鉱物資源などの原料供給と製品の販売市場と位置づけられるだけでなく、資本輸出の対象地域とされ、資本主義の世界システムの枠組みに編入された。この時期、貿易・交通・通信手段も高度に発達し、人・物・情報・文化などの往来も盛んになったため、支配と従属の経済的関係も合わせ、「世界の一体化」が進行した。

イギリスの経済的優位の動揺とアメリカ・ドイツの台頭は、各国の緊張と対立を激化させた。列強は相互に軍事ブロックを形成し、偏狭なナショナリズムが領土拡張政策に利用された。大国の利害とナショナリズムが交錯したバルカン半島では、1914年サライェヴォ事件がおこり、結局その国際的対立は第一次世界大戦を勃発させることになった。

大衆社会への入り口

19世紀のヨーロッパの人口は1800年から1850年までに47%、次の半世紀で53%増え、1800年頃から第一次世界大戦直前までの「長い19世紀」の間に人口は2.5倍に増加した。

工業化の拠点となる都市の発展も著しいものがあった。中小都市も含めて都市人口は大幅に増加し、都市人口の総人口に占める割合は、第一次世界大戦直前には、イギリスで30%を超え、アメリカ合衆国・ドイツでも20%を上回った。

人々は廉価れんかで通俗的な新聞を読み、大衆スポーツとしてのサッカーを観戦した。また、鉄道網の整備も進み、近くのリゾート地に家族旅行に出かけることも多くなった。ものごとが急激に転換しようとしているこの時代は19世紀の終わりのときにあたり、文学者や芸術家には市民時代の価値観の終焉として不安をもって迎えられた。世紀末文化が爛熟や退廃、そして諦念たいねんを表現したのは、近代文明の物質主義や進歩主義への批判であった。しかし、長い不況の克服、帝国領土の拡大やつぎつぎに実用化される新技術を前にして、一般大衆は未来へ楽観的希望を抱いたのであり、後世の人々は世紀転換期から第一次世界大戦が始まる20年間ほどをフランス語で「ベルエポック Bell Époque 」(よき時代)と呼んで懐古した。

イギリス

1906年から第一次世界大戦まで政権を担った自由党内閣は、労働党の協力をえて労働争議法・養老年金法などの社会政策をつぎつぎに実行し、11年にはロイド=ジョージ蔵相 Lloyd George (1863〜1945)のもとで健康保険と失業保険を内容とする国民保険法を制定した。増大した社会政策費を調達し、ドイツに対抗する海軍拡張費をえるため、富裕層・地主の税負担を重くする「人民予算」が計画された。保守党が強い貴族院がこれに抵抗すると、政府は11年に議会法を成立させ、庶民院の法案決定権が貴族院に優先することを確定した。

アイルランドについては、グラッドストン自由党内閣はアイルランド人自作農を創出することで土地問題の解決をはかった。その後、パーネル Parnell (1846〜91)に率いられたアイルランド国民党は自治権獲得の運動を進め、内閣としても無視できない存在になっていた。グラッドストンは1886年に自治法案を提出したが、自由党の分裂を招き法案は廃案になった。グラッドストンは1893年にも自治法案を提出したが、貴族院の賛成がえられなかった。結局、1911年の議会改革をへて、ようやく1914年にアイルランド自治法が成立した。しかし、イギリス人プロテスタントの多い北アイルランド(アルスター)はこれに反対して、アイルランド独立を主張するシン=フェイン党 Sinn Fein と対立し、政府は第一次世界大戦の勃発を理由に自治法の実施を延期した。シン=フェイン党は反発して、対戦中の1916年武装蜂起をおこしたが鎮圧された(イースター蜂起)。

世界分割と列強対立

アフリカの植民地化

イギリスは大西洋奴隷貿易を通して莫大な利益を上げ、それが産業革命のための資本の蓄積になったといわれる。しかし、18世紀後半から非国教各派による奴隷制と奴隷貿易の廃止を求める運動が展開された。ナポレオン戦争中に奴隷貿易が停止され、1833年、イギリス帝国全体で奴隷制度を廃止することが決定された。

コンゴの経済的重要性に着目したベルギーレオポルド2世(ベルギー王)(位1865〜1909)がその領有を宣言すると、イギリスとポルトガルはこれを妨害しようとした。ここで、アフリカ進出の機会をうかがっていたビスマルクが仲介に乗りだし、1884〜85年にベルリン会議を開いた。

アフリカの植民地化地図

会議は、コンゴ盆地の自由貿易と中立化、コンゴ川およびニジェール川での「航行の自由」、奴隷貿易の禁止などを定め、さらに新たにアフリカの領土を合併する場合、その地域での他国の権益と通商・航行の自由を確実に保証できる実体的な支配権を確立しなければならないという原則を取り決めた(実効支配の原則)。そのためには、植民地の境界を画定し、現地に行政・治安機構をつくる必要があった。こうして、ベルリン会議でアフリカ分割の大原則が定められてから、列強によるアフリカの植民地化は急速に進んだ。そして、第一次世界大戦直前には、アフリカの独立国はリベリア共和国エチオピア帝国だけになってしまった。

アフリカの植民地化を先導したのは、イギリス・フランス・ポルトガルであった。イギリスは1880年代の初めにエジプトを事実上の保護下におき、さらにマフディー派の抵抗を排除して1899年にはスーダンを征服した。アフリカ南部のケープ地域はオランダの植民地であったが、ウィーン会議でイギリス領となり、ケープ植民地がつくられた。オランダ人の子孫を主体とするブール人 Boers はイギリス支配を逃れて北方に移住し(グレート=トレック)、現地のアフリカ人の土地を奪いトランスヴァール共和国 Transvaal (1855〜1902)とオレンジ自由国 Orange (1854〜1902)をたてた。

農業地域であった両国で19世紀後半に豊富なダイヤモンドと金が発見されると、イギリスは両国の併合を画策するようになった。ベルリン会議を通してドイツが南西アフリカを植民地にすると、イギリスは南アフリカから北方に隣接する中央アフリカ地域へも進出して現在のボツワナを保護領化し、さらにセシル=ローズ Cecil Rhodes (1853〜1902)はジンバブウェ地方なども支配下においた。ケープ植民地首相となったローズがトランスヴァールの併合に失敗して失脚したあと、イギリス本国の植民地相ジョゼフ=チェンバレンは、1899年、南アフリカ戦争(ブール戦争, 1899〜1902)をおこした。イギリスはゲリラ戦に苦しみながらも勝利してブール人の両国家を併合し、のちに南アフリカ連邦となる原型をつくりあげた。イギリスのケープタウンとカイロを結ぶアフリカ縦断政策は、インド支配(カルカッタ)とも結びつき3C政策と呼ばれる。

帝国主義対立の変化

世界政策のもとでドイツの進めるバグダード鉄道を軸とした3B政策は、イギリスの3C政策やロシアの南下政策と対立し、列強の外交関係を変化させた。 参考:山川 詳説世界史図録

ドイツの膨張政策に対抗して権益を守ろうとするイギリスの動きは、フランスの植民地拡大政策も刺激した。すでにアルジェリア・チュニジアを領有していたフランスはサハラ砂漠から西アフリカをへて赤道アフリカにいたり、さらにジブチ・マダガスカルを連結しようとした。フランスのアフリカ横断政策はまず、ゴールドコースト・ナイジェリアから進出したイギリスとニジェール川上流で衝突した。ついで、コンゴからナイル川の上流をめざしたフランス軍は、1898年、マフディー国家を崩壊させたイギリス隊とファショダ Fashoda で衝突した(ファショダ事件)。この事件で英仏間の緊張は最高潮に達したが、その後1904年、海外進出を強化するドイツへの警戒心から両国の間で英仏協商が結ばれた。これにより、フランスはイギリスのエジプトにおける支配的地位を、イギリスはフランスのモロッコにおける支配的地位を認めあうなど、長年にわたる英仏間の対立に終止符が打たれた。

ドイツはベルリン会議を機に1880年代半ばに、南西アフリカ(現ナミビア)・カメルーン・トーゴランド・東アフリカ(タンガニーカ)の領有権を獲得したが、いずれも経済上の利益をもたらすものではなかった。ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) の時代には、植民地を領有することは列強としての存在感を示すための政策とうけとめられるようになった。1904年以後、英・仏の接近に不安を感じたドイツは、フランスのモロッコ支配に異議を唱えて2度にわたりモロッコ事件を引きおこしたが、モロッコはフランスの保護国となった。

イタリアは紅海に面するエリトリア・ソマリランドを獲得した。ついで、隣接するエチオピアを征服しようとしたが、アドワの戦いで敗れ、後退した。その後、イタリアは列強が 第2次モロッコ事件 に忙殺されている間に、イタリア=トルコ戦争(1911〜12)を戦い、オスマン帝国からトリポリ・キレナイカ(両者を合わせて現リビア)を奪った。
ベルリン会議で成立したコンゴ自由国はレオポルド2世(ベルギー王)の私有領とみなされ、ゴム輸出で利益をあげた。しかし、現地人に対する過酷な扱いが内外の批判を浴び、1908年、同国はベルギーに併合されて、ベルギー領コンゴとなった。

16章 二つの世界大戦

第一次世界大戦とロシア革命

第一次世界大戦の勃発
第一次世界大戦の勃発 第一次世界大戦中のヨーロッパ
第一次世界大戦中のヨーロッパ ©世界の歴史まっぷ

1914年6月28日、オーストリア皇位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻がオーストリアに併合されたボスニアの州都サライエヴォで暗殺された(サライェヴォ事件)。犯人はセルビア系の青年で反ハプスブルクの民族主義的組織に所属していた。セルビア政府は事件とは直接関与していなかったが、オーストリアはドイツの強力な支援をえて7月28日にセルビアに宣戦布告した 。セルビアを支援するロシアが総動員令を発すると、ドイツはロシア・フランスに宣戦布告した。

1914年7月28日 オーストリアの対セルビア宣戦:オーストリアはサライェヴォ事件に対するセルビア政府の責任を追求、セルビアが最後通牒受託を一部保留したため、ドイツの支持の下に宣戦を布告した。

参考 世界史用語集

8月4日にはドイツ軍はベルギーの中立を侵して北フランスに進撃した 。イギリスは国際法違反を理由にドイツに宣戦布告し、ほかの列強諸国も同盟・協商関係にしたがって参戦したので、同盟国側と協商国(連合国 )側との間で帝国主義戦争が始まった。8月24日には日本が日英同盟 日露対立と列強)を理由に参戦し、中国におけるドイツの租借地膠州こうしゅう湾および山東省青島チンタオを攻略し、11月には、反ロシアのオスマン帝国に英・仏が宣戦布告したので、戦線は東アジアや西アジアにも拡大した。三国同盟の一員であったイタリアは1915年にオーストリアに宣戦布告し、17年にはアメリカ合衆国も連合国 に加わった。バルカン諸国のなかではブルガリアが同盟国側に、ルーマニアとギリシアが連合国 に加わった。こうして、戦線はヨーロッパからアジア・アフリカ・大西洋にまで拡大し、列強の植民地や従属地域から兵士や軍需物資も動員されたので、この戦争は世界的規模の大戦争となった(第一次世界大戦)。

第一次世界大戦前の国際関係図
第一次世界大戦前の国際関係図 ©世界の歴史まっぷ
1914 ベルギーの中立侵犯:ドイツは8月1日にロシア、3日にフランスに宣戦し、短期決戦を目論み(シュリーフェン=プラン)、8月4日に中立国ベルギーを侵犯した。このドイツの行動を理由にイギリスはドイツの宣戦布告した。

参考 世界史用語集

ドイツはかねてからのシュリーフェン計画にもとづいて短期決戦を敢行したが、北フランスのマルヌの戦い Marne (1914年9月初旬)に敗れて進撃を阻止された。以後西部戦線は膠着し、一進一退の塹壕ざんごう戦となった。東部戦線ではヒンデンブルクの率いるドイツ軍が東プロイセンのタンネンベルクの戦い Tannenberg (1914年8月下旬)でロシア軍を殲滅し、ポーランドなどロシア領内に進撃したが、国土の広さや厳しい冬の気候のため決着の見通しはたたなかった。

総力戦と挙国一致体制

各国の市民はこの戦争を防衛戦争ととらえ、開戦を歓迎した。ベルリン・パリ・ロンドンなどの大都市では群衆が街頭を埋めつくし、愛国ムードが高まった。しかし、短期決戦と考えられた戦争は凄惨せいさん塹壕ざんごう戦となり、1914年10月にはドイツもフランスも軍需物資の平時備蓄を使い果たし、かつて想像もしなかった物量戦と消耗戦になった。西部戦線では1915年4月のイープルの戦い Ypres でドイツ軍は毒ガスを使用し、1916年6月からのソンムの戦い Somme では戦史上初めてイギリス軍の戦車が登場した。また、同年2月から12月までヴェルダン要塞 Verdun をめぐる攻防戦が展開され、仏独両軍の戦死者は70万に達した。圧倒的な物量戦のために経済体制は軍需産業中心に再編され、銃後の女性や青少年も軍需工業へ動員された。貿易を断たれたドイツ・オーストリア・ロシアは食料配給制をとるなど国民の消費生活全体が統制された。イギリスは史上初めて徴兵制を導入し、インド兵・モロッコ兵・コンゴ兵・アルジェリア兵などを戦場に動員した。こうして、軍事・経済ばかりでなく国民心理をも含む国力全体を戦争にむけて結集する総力戦となり、戦争の形態は大きく変化した。

大戦が勃発すると、ドイツ社会民主党が戦時公債に賛成したように、社会主義者の多くは反戦の立場を貫かずに祖国防衛に転じ、各国で挙国一致体制が成立していた 。しかし、戦争終結への展望が開けず、国民生活も窮乏すると戦争遂行への疑問や不満が広まり、国際的な反戦運動を再建する試みもおこなわれるようになった。そのため各国政府は戦争目的を見失いがちな国民の心をよりひきつけるために、いっそう強力な戦争指導体制を再構築する必要に迫られた。ヴェルダンの攻防戦に失敗したドイツでは1916年8月にヒンデンブルク・ルーデンドルフの軍事独裁体制が成立して総力戦体制を確立した。イギリスでは、軍需相であったロイド=ジョージが1916年12月みずから挙国一致内閣の首相となって食料配給制度など経済に対する国家統制を強めた。

戦時秘密外交

戦争が長期の総力戦になるなかで、両陣営とも内部の結束を固め、中立国を味方に引き入れるために戦後の領土の再分配を決めた条約を秘密のうちに結んだ。そのころには、国家間の対立する利害を調整する外交交渉は、議会や世論の動向に左右されるのはよくないという考え方が支配的であったのである(秘密外交)。はじめ中立の立場にあったイタリアは領土問題でオーストリアと対立していたが、イギリスなどがトリエステなどのいわゆる「未回収のイタリア」( イタリアの統一 – 世界の歴史まっぷ, 同盟外交の展開と列強の二極分化 – 世界の歴史まっぷ)の領有を約束すると(ロンドン秘密条約)、1915年5月イタリアはオーストリアに宣戦布告した。また、1916年5月、イギリス・フランス・ロシアは戦後のオスマン帝国領の分割を約束し、パレスチナを国際管理地域とするサイクス・ピコ協定(サイクスとピコは交渉にあたった外交官の名前)を結んだ。両陣営はまた植民地の人々を動員するために戦後の自治や独立を約束した。あるいは、敵国の植民地における民族独立運動を支援する工作をおこなって戦争を有利に進めようとした。

イタリアとドイツの統一地図

西アジアでは、イギリスはオスマン帝国の背後でアラブ人の反乱がおきることを期待してアラブ民族運動の指導者フセインとの間でアラブ人の独立国家建設を約束したフセイン・マクマホン協定を結んだ(1915年)。さらに1917年イギリス外相バルフォアはパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設することを認めた(バルフォア宣言)。他方、戦後の自治を約束されたインドからは145万人以上の人々が兵士として動員された。また、イギリスの白人自治領であるオーストラリア・ニュージーランドからの兵士は、ダーダネルス海峡の無謀なガリポリ Gallipoli 上陸作戦に投入された。こうしてこれらの地域の人々は、戦況を知らせようとしないイギリスの帝国政策に疑念を抱くようになった。ヨーロッパでは、ドイツとロシアが相手の犠牲を前提にポーランドに独立の約束をしていた。

合衆国の参戦と戦争の終結

1917年、対戦に転機が訪れた。この年、それまで中立を保っていたアメリカ合衆国が参戦する一方、ロシアには十月革命でソヴィエト政府が成立した。アメリカ大統領に再選されたウィルソン(ウッドロー=ウィルソン)は1917年1月、「無併合・無賠償」の「勝利なき平和」を唱えて戦争終結の斡旋に乗りだした。しかし、実際にはアメリカは物資や兵器の供給、資金の融資などを通じて連合国 との経済的な結びつきを強めていた。

ドイツの軍部独裁政府が1917年2月無制限潜水艦作戦の開始を声明したため、アメリカは民主主義の擁護を掲げて4月にドイツに対して宣戦布告した。ロシアでは、ソヴィエト政府は同盟側が休戦協定を結び講和交渉を始めた。

同じころ、交戦各国の国内でも平和を求め政府を批判する声が高まった。ドイツでは、帝国議会の多数派が1917年7月に交渉による講話を決議するなど帝政の民主化を求める運動が激化したが、軍部と保守派は軍部独裁を強化することで対抗した。フランスでも対独強硬論のクレマンソー内閣が成立して、挙国一致体制を再構築した。

1918年1月、ウィルソン大統領は、レーニンのおこなった和平提案や秘密条約の公表に対抗し、革命の広がりを阻止するために、秘密外交の廃止、海洋の自由、民族自決などからなる十四カ条の平和原則を発表した。3月、ドイツ軍の攻勢をうけたソヴィエト政府はドイツなどとの単独講和にふみきり、ブレスト=リトフスク条約 Brest-Litovskを締結して戦線から離脱した。ドイツは東部戦線の兵力を西部方面に投入して最後の大攻勢をかけたが、補給不足のため進撃は停止した。9月にはブルガリア、10月にオスマン帝国、11月にはオーストリアも単独休戦をおこない、皇帝はスイスに亡命した。残されたドイツの軍部はもはや勝利の見込みのないことを悟り議会指導者に政権をゆだねた。これをうけ、責任内閣制をもつ本格的な議会政治の体制が整えられ、ドイツ政府はアメリカ大統領と休戦交渉に入った。ところが、それまで目立った戦いをしてこなかった海軍の指導部が最後の絶望的な出動を命じた。11月3日、かねてから待遇に不満をもっていた水兵はキール軍港で蜂起した(キール軍港水兵反乱)。即時講和を求めた水兵の反乱は革命となって全国に運動は広まった。革命の波はベルリンに押し寄せ共和国の成立が宣言されると、11月10日、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) はオランダに亡命し、国内の諸君主も退位した。1918年11月11日、新共和国政府はコンピエーヌの森で連合国 と休戦協定を結び、戦争は終わった。

大戦の結果

1914年夏、ヨーロッパの若者が祖国防衛の愛国的熱情に燃え、落ち葉の散るころには故郷に帰れるといって出かけた戦争は4年以上にわたる総力戦となった。戦争の長期化と新兵器の投入によって膨大な数の死傷者が生まれたが、塹壕ざんごうのなかで機関銃の一斉射撃やすさまじい砲撃音を体験した兵士たちのなかには神経症の後遺症に苦しむ者も少なくなかった。貴族・地主・軍部の保守エリートは国家指導の誤りを批判され、総力戦を支えた民衆や女性の発言力は増大した。各国で女性参政権を含む普通選挙制度が導入されて大衆民主主義が成立したのはその表れであった。多数の国民の意思を反映する政治は、アジア・アフリカなど植民地や従属地域の住民の意思を尊重する政治にも通ずる。その意味で、ソヴィエトとアメリカ合衆国が民主主義と民族自決の新しい国際政治の理念を掲げて登場したことは、伝統的なエリート政治や植民地支配を打破しようとする世界中の人々に歓迎された。また、戦争の破壊と犠牲、そして人心の荒廃はヨーロッパの陥落を目の当たりに現出させるものであり、ヨーロッパ近代の価値観崩壊の感情をもたらした。

第一次世界大戦年表

第一次世界大戦年表

 ヨーロッパ・アメリカアジア
190810澳、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合7青年トルコ革命
19117第2次モロッコ事件10辛亥革命
9イタリア=トルコ戦争(〜12.10)
191210第1次バルカン戦争(〜13.2)1中華民国成立
19136第2次バルカン戦争(〜8)7中国第二革命
19146サライェヴォ事件
7墺、セルビアに宣戦
8独、ロシア・フランスに宣戦、ベルギー侵入8日本、ドイツに宣戦
英、ドイツに宣戦インド参戦
タンネンベルクの戦い
9マルヌの会戦、仏が独を阻止10オスマン帝国、同盟国側に参戦
11日本、青島攻略
19154イープルの戦い(毒ガス初使用)1日本、二十一カ条の要求
5伊、三国同盟破棄、オーストリアに宣戦中国、文学革命運動
ルシタニア号事件9フセイン・マクマホン協定
10ブルガリア、同盟国側に参戦12袁世凱帝政宣言→第三革命
19162フェル弾要塞攻防戦(仏が死守)
5ユトランド沖海戦5サイクス・ピコ協定
6ソンムの戦い(連合軍の攻勢)
19171米、ウィルソン大統領「勝利なき平和」
2独、無制限潜水艦作戦
3露、二月革命(三月革命)
4米、ドイツに宣戦7ロレンス、アラビアで蜂起を組織
8中国、ドイツに宣戦
9孫文、広東軍政府成立(〜20)
11露、十月革命(十一月革命)「平和に関する布告」11バルフォア宣言
石井・ランシング協定
19181ウィルソン大統領十四カ条」提案
3ブレスト=リトフスク条約
9ブルガリア、休戦8日本、シベリア出兵
10オスマン帝国、休戦
11墺、休戦
ドイツ革命
第一次世界大戦終結
19191パリ講和会議3朝鮮、三・一独立運動
3コミンテルン結成英、インドにローラット法
6ヴェルサイユ条約調印5中国、五・四運動
7ソヴィエト、カラハン宣言
参考:山川 詳説世界史図録

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