国際連盟
国際連盟の準公式紋章(1939〜41)(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

国際連盟

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国際連盟 League of Nations (A.D.1920〜A.D.1946)

1920年1月、42カ国が参加して発足した史上初の国際平和機構。本部はスイスのジュネーヴ。アメリカ大統領ウィルソンの提案に基づく。連盟規約はヴェルサイユ条約やサン=ジェルマン条約などに組み込まれた。アメリカ合衆国の不参加、ソ連やドイツの排除などの問題を抱え、30年代に入ると大国間の対立が激化し、平和維持機能は麻痺していった。

国際連盟

1920年1月、42カ国が参加して発足した史上初の国際平和機構。本部はスイスのジュネーヴ。アメリカ大統領ウィルソンの提案に基づく。連盟規約はヴェルサイユ条約やサン=ジェルマン条約などに組み込まれた。アメリカ合衆国の不参加、ソ連やドイツの排除などの問題を抱え、30年代に入ると大国間の対立が激化し、平和維持機能は麻痺していった。

参考 世界史用語集

国際連盟加盟国一覧

国際連盟加盟国

国名(加盟時)加盟年月日離脱年月日
アイルランド自由国1923/9/101946/4/18
アビシニア1923/9/281946/4/18
アフガニスタン王国1934/9/271946/4/18
アルゼンチン1920/1/101946/4/18
アルバニア公国1920/12/171939/4/9
イギリス1920/1/101946/4/18
イタリア王国1920/1/101937/12/11
イラク王国1932/10/31946/4/18
インド帝国1920/1/101946/4/18
ウルグアイ1920/1/101946/4/18
エクアドル1934/9/281946/4/18
エジプト王国1937/5/261946/4/18
エストニア共和国1921/9/221946/4/18
エルサルバドル1920/1/101937/8/11
オーストラリア連邦1920/1/101946/4/18
オーストリア共和国1920/12/151938/3/13
オランダ1920/1/101946/4/18
カナダ1920/1/101946/4/18
キューバ1920/1/101946/4/18
ギリシャ王国1920/1/101946/4/18
グアテマラ1920/1/101936/5/26
コスタリカ1920/12/161925/1/22
コロンビア1920/1/101946/4/18
シャム王国1920/1/101946/4/18
スイス1920/1/101946/4/18
スウェーデン1920/1/101946/4/18
スペイン王国1920/1/101939/5/7
セルブ=クロアート=スロヴェーン王国1920/1/101946/4/12
ソビエト社会主義共和国連邦1934/9/181939/12/14
チェコスロバキア1920/1/101939/3/15
中華民国(北京政府)1920/1/101946/4/18
チリ1920/1/101938/5/14
デンマーク1920/1/101940/7/
ドイツ国1926/9/81933/10/19
ドミニカ共和国1924/9/291946/4/18
トルコ1932/7/181946/4/18
ニカラグア1920/1/101936/6/27
日本1920/1/101933/3/27
ニュージーランド1920/1/101946/4/18
ノルウェー1920/1/101946/4/18
ハイチ1920/1/101942/4/
パナマ1920/1/101946/4/18
パラグアイ1920/1/101935/2/23
ハンガリー王国1920/9/181939/4/14
フィンランド1920/12/161946/4/18
ブラジル1920/1/101926/7/14
フランス共和国1920/1/101946/4/18
ブルガリア王国1920/12/161946/4/18
ベネズエラ1920/1/101938/7/12
ペルー1920/1/101939/4/8
ベルギー1920/1/101946/4/18
ペルシア帝国1920/1/101946/4/18
ポーランド1920/1/101946/4/18
ボリビア1920/1/101946/4/18
ポルトガル1920/1/101946/4/18
ホンジュラス1920/1/101936/7/10
南アフリカ連邦1920/1/101946/4/18
メキシコ1931/9/231946/4/18
ラトビア共和国1921/9/221946/4/18
リトアニア共和国1921/9/221946/4/18
リベリア1920/1/101946/4/18
ルーマニア王国1920/1/101940/7/
ルクセンブルク1920/12/161942/8/30

太字:1920年1月10日の連盟結成時から1946年4月8日〜18日に開催された最後の国際連盟総会まで加盟していた国(25ヵ国)


参考: Wikipedia

二つの世界大戦

第一次世界大戦は帝国主義列強間の対立・緊張関係を背景に勃発し、ヨーロッパを主戦場として、兵員や物資を提供させるかたちで植民地をも巻きこむ大戦争になった。人類が初めて経験する総力戦となり、その惨禍さんかの規模は未曾有なものになったことから、戦後恒常的な平和機関として国際連盟が結成された。

第一次世界大戦とロシア革命

パリ講和会議 とヴェルサイユ条約

1919年1月、パリで連合国 27カ国代表による講和会議が開催された。会議関係者総数1万人におよぶ史上最大規模の国際会議では、軍人ではなく政治家が主役となり、各国の議会の意向や世論、国民の動向が大きな影響を与えた点でも画期的であった。講和の枠組みはアメリカウィルソン大統領 Wilson (1856〜1924)が1918年1月に提案した十四カ条とされ 、また米・英・仏・イタリアと新たに指導的大国と認められた日本の五大国が全般的主導権をもつことを認められた。とはいえ、日本はヨーロッパ内の諸問題に切実な関心がなく、またイタリアのオルランド首相 Orlando (1860〜1952)も領土要求がれられないとして会議を一時離脱するなどの行動をとったため、結局、米のウィルソン、英のロイド=ジョージ Lloyd George (1863〜1945)、仏のクレマンソー Clemenceau (1841〜1929)の三首脳間の協議が決定的な重みをもつことになった。この3国はロシア革命の波及阻止などでは共同行動をとったが、フランスが自国の安全保障問題にこだわり、イギリスは戦前の地位への復帰を求めて国際経済の再建を重視し、アメリカは十四カ条遵守に固執するなど、それぞれの目的や思惑に違いがあった。

ウィルソンの十四カ条
  1. 秘密外交の廃止
  2. 海洋の自由
  3. 経済障壁の撤廃と通商条件の対等化
  4. 軍備縮小
  5. 植民地再配分要求の公正な調整
  6. 全ロシア領からの撤兵
  7. ベルギーからの撤兵とベルギーの主権回復
  8. 全フランス領から撤兵とアルザス・ロレーヌのフランスへの返還
  9. 民族居住線に沿ったイタリア国境の修正
  10. オーストリア=ハンガリー内諸民族に対する自立的発展の機会の保証
  11. ルーマニア・セルビア・モンテネグロからの撤兵、バルカン諸国の政治・経済的自立と領土保全への国際的保証
  12. オスマン帝国内のトルコ領土の保全、他諸民族の自立的発展の保証
  13. 外海への自由な交通路を与えられた独立ポーランド国家の樹立
  14. すべての国家の政治的独立と領土保全を相互に保障する国際組織の設立
イギリスは第2条の海洋の自由については留保した。

会議ではまず国際連盟規約が審議され、ついで対独講和の具体的内容が順次検討された。しかし、合意達成は容易ではなく、4月初めにはウィルソン大統領が交渉を見限って帰国を準備するまでになった。こうした連合国 内部の確執から、ドイツ軍も交渉の席に着かせるという当初の予定は実現されなかった。4月中旬、ようやく内容がまとまり、5月ドイツ代表団に示されたが、実質的な交渉はほとんどないまま、6月半ば連合国 側は最後通告の形でドイツに受諾をせまった。ドイツは抗議したもののほかに選択肢はなく、6月28日ヴェルサイユ宮殿鏡の間で講和条約(ヴェルサイユ条約 Versailles )に調印した。

条約の第1部は、その後の他同盟国との講和条約と同様、26条からなる国際連盟規約であり、2部以下に新国境・領土割譲・軍備・賠償などに関する諸条項がならんでいた。ドイツは全植民地を国際連盟に引き渡し、西部国境側ではアルザス・ロレーヌ Alsace-Lorraine をフランスに返還して、さらに国境地域の一部をベルギーに割譲した。ザール地方は15年間国際連盟管理下におかれ、ライン左岸も15年間の連合国 側の保障占領を認め、その占領費も負担させたれた。

東部国境側では、ヴェストプロイセン州などを再興させたポーランド国家の外海への通行路として割譲し(ポーランド回廊)、ダンツィヒ市の国際管理への移行を認めた。ザール地方、オストプロイセンの一部、シュレジエン、北部シュレスヴィヒ地域では住民投票による帰属決定にゆだねられ、オーストリアとの合併は禁止された。軍備面では、徴兵制の廃止、陸軍兵力の10万人以下への制限、重砲・航空機・戦車の保有禁止、また海軍兵力は1万6500人、潜水艦の保有禁止、新造艦は1万トン以下に限定、などの制約を受けた。

賠償支払いについてはドイツ側も最初からその用意があることを認めており、焦点はその対象範囲と総額にあった。英・仏の世論は広範な賠償支払いを期待し、とくにフランスはドイツの最強国化への警戒という政治的意図もあって高額な賠償を要求した。賠償額がドイツの支払い能力を超えることを懸念したアメリカは、開戦責任をドイツと同盟側に負わせたうえで(231条)、民間人の損害と中立が保障されていたベルギーの全戦費に対象を限定させようとした。戦争責任条項が講和条約の基本部分ではなく、賠償関係の部に組み込まれているのはそのためである。賠償総額はこの時点でまだ確定することはできず、その後の協議にゆだねられた。

条約によって、ドイツは戦前と比較して、国土の13.5%、人口の約1割を、さらに鉱物資源の豊富なオーバーシュレジェンを割譲したこともあって、石炭・すず生産量の4分の3、ジャガイモ・ライ麦生産量の2割近くを失った。

ドイツ側は条約の個々の内容にもまして、交渉無しの一方的通告、戦争責任条項、さらにヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) ( ヴィルヘルム2世と「黄禍論」)など主要責任者の国際法廷への訴追など、大国としてのドイツの名誉や体面にかかわる条項、それまでの国際慣例にはなかった新規項目を中心に批判した。賠償額については、すでに当時から連合国 内部でもそれが課題になることに懸念があり、それらを含めてヴェルサイユ条約はドイツに対して過酷であるとする見方は長い間定説となっていた。しかし近年、これはドイツ側の主張に引きずられて条約のマイナス面だけを強調し、たとえばドイツの国土が占領されず、領土も基本部分では保全され、また経済構造も手つかずで残され、さらに軍事制限も国際的な軍縮の先取りと位置づけられていることなどが十分考慮されていないと批判されるようになった。現在では当時の状況を考慮に入れれば比較的寛大で、問題の多くは条約自体より、むしろその後の対応にあったとする見方が有力になっている。

他の同盟側の敗戦国との講和条約もパリ周辺の宮殿・城館で調印され、ほぼヴェルサイユ条約に準じた内容となった。対オーストリア講和条約(サン=ジェルマン条約 St.Germain )は1919年9月に結ばれ、オーストリアは戦前とくらべて面積・人口ともに4分の1に縮小され、ドイツ人のみの小共和国となった。ブルガリアとは19年11月ヌイイ条約 Neuilly が、ハンガリーとは1920年6月トリアノン条約 Trianon がそれぞれ調印され、ハンガリーは歴史的領土と人口の過半を失った。オスマン帝国の分割を内容とするセーヴル講和条約 Sèvres は1920年8月に調印された。

十四カ条でも取り上げられたロシア・オーストリア=ハンガリー・オスマン3帝国内の諸民族の自治は、必ずしも各民族の国家的独立を意味していなかった。しかし民族自治権は一民族一国家という単純化したスローガンとして理解され、大戦末期から、バルト地域からバルカン半島にいたる広範な中欧地域で、それぞれの新国家が建設されていた。連合国 もそうした動きを追認せざるをえず、再興されたポーランドをはじめとして、バルト地域からバルカン半島にいたる中・東欧地域で8カ国の新興国家 ❶ が成立した。これらの国家は実際には国内になお少数民族をかかえる複雑な民族構成をもち、一方、国外にはそれぞれかなりの数の自民族を残していた。そのため連合国 は、新たな民族紛争の発生を懸念して、新興諸国に少数民族の権利保護を義務付ける条約を結ばせた。

フィンランド・エストニア・ラトヴィア・リトアニア・ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(ユーゴスラヴィア)。

ドイツの旧植民地とオスマン帝国内の非トルコ人地域 については、国際連盟から先進国(戦勝国)に統治を委任する形式がとられ、旧ドイツ領はおもにイギリス連邦諸国と日本の、またオスマン帝国内のイラク・トランスヨルダン・パレスチナはイギリスの、シリアはフランスの委任統治下におかれた。民族自決権や国家的独立がヨーロッパに限定され、旧ドイツ植民地が事実上戦勝大国間で再分配されたことは、アジア・アフリカの植民地の人々を失望させた。

アラビア半島のイブン=サウードの独立は認められた。
1920年代の国際関係

ヴェルサイユ条約の発効とともに発足した国際連盟は、1920〜23年に旧敗戦国であるオーストリア・ハンガリー・ブルガリアを加盟させ、さらに1926年にはドイツの加盟を認めた結果 、ヨーロッパでの基盤を拡大することができた。国際連盟が行動できる範囲は限られてはいたが、発足早々の1920年にはスウェーデンとフィンランド間のアハベナンマー(オーランド)諸島帰属をめぐる対立の調停に成功し、22年にはオーストリアの、さらに翌年にはハンガリーの財政破綻に対する国際的支援体制の組織化に努めるなど、一定の役割を果たした。紛争防止活動のなかでもっとも大きな成果は、25年ギリシアとブルガリア間の戦争の危機を制裁発動を警告して回避させた例である。そのほか、その後の国際的人道支援の基礎となった各種の難民救済事業や少数民族保護、大戦の各国捕虜の本国帰還促進支援などの活動もそれなりに成果をあげた。

ドイツは加盟と同時に、常任理事国になった。
難民救済事業

難民救済事業のなかではとくにナンセン=パスポートは成功例のひとつである。当時ロシア革命や東欧諸国での内戦から逃れ、あるいはそれぞれの政府によって追放されて、国籍を失い、旅券をもたない難民が国際問題となっていた。北極探検家として知られるノルウェーのナンセン Nansen (1861〜1930)は、第一次世界大戦後、赤十字や国際連盟での人道的活動で活躍していたが、これら難民に対し連盟が発行するパスポートを与えて保護することを提案して、実現させた。このパスポートは彼の名にちなんでナンセン=パスポートと呼ばれ、1922年だけで150万部も発行された。なお、同年ナンセンはノーベル平和賞を授与された。

しかし、1920年代前半は講和条約の残された課題の処理がなお引き続いていた。たとえば、最終的な賠償額確定をめぐる連合国 内部での調整のため、1920年初めから22年末までの3年間で、英・仏・イタリア・ベルギーの首脳会談が23回も開かれる有様であった。21年のロンドン会議でようやく賠償総額を1320億金マルク と確定し、ロンドン最後通牒によってドイツ側に認めさせた。とはいえ、その履行をめぐって、フランス・ベルギーなどとドイツとの間の対立関係はおさまらず、手段を変えた大戦の継続といわれる緊張状況が続いた。1923年1月には、フランスとベルギーはドイツの石炭・コークス引き渡し量不足を理由に、ドイツの石炭生産の中心地で、有数の重工業地域であったルール地方に軍を進駐させて、直接賠償の取りたてに乗りだす事態になった(ルール占領)。ドイツ側の抵抗が続くなか、24年になってドーズ案 Dawes による賠償支払い問題の一応の決着がはかられたが、こうした状況のもとでは国際連盟の政治的活動の余地はせばめられた。さらに23年、アドリア海の入り口に位置するギリシア領のコルフ島でイタリア軍人が殺害された事件を理由に、イタリアがコルフ島を占拠した事件でも、イタリアは連盟の仲裁を拒否したため、英・仏をまじえたパリの大使会議で解決策が決定した。これは、大国が関与した場合、その大国の同意がなければ連盟も行動できなかった現実を映しだした。

当時マルクは金との兌換だかん性のない紙幣マルクであったので、算定には戦前の金マルクが使われた。1金マルクは5/21金ドル、純金0.358423gに相当した。
ヴェルサイユ体制と国際連盟
ヴェルサイユ体制と国際連盟
加盟国の推移(1920〜45)紺:加盟国、青:加盟国の植民地、橙:委任統治領、灰:非加盟国WIKIMEDIA COMMONS ©Maps & Lucy

十四カ条とヴェルサイユ条約以下の各講和条約で形成された国際体制は、全体としてヴェルサイユ体制と呼ばれ、それを統括する場として国際連盟 League of Nations が想定されていた。国際平和と安全保障のための史上初の国際組織である連盟は、1920年1月ヴェルサイユ条約の発効と同時に正式に発足した。加盟国は当初連合国 32カ国のみで構成され、ドイツなど旧同盟国とソヴィエト=ロシアは排除された。連盟は本部をスイスのジュネーヴにおき、国際労働機関(ジュネーヴ)と常設国際司法裁判所(ハーグ)が付置された。連盟の最高議決機関は年次総会で、重要な議決機関として理事会があり、英・仏・イタリア・日本の4カ国が常任理事国となった。アメリカ合衆国も常任理事国となることが予定されていたが、対外的義務の負担と外交的自由の拘束を嫌う共和党保守派の反対とウィルソン大統領自身の非妥協的姿勢によって、19年11月、上院でヴェルサイユ条約批准が否決されたため、国際連盟にも加盟しなかった。そのため、合衆国とドイツとの講和条約は1921年8月個別にベルリンで調印された。合衆国の不参加、敗戦国と革命ロシアの排除によって、ヴェルサイユ体制は事実上ヨーロッパ中心の国際体制という構造になった。

ワシントン体制

ワシントン会議と締結された条約

ワシントン会議
1921〜22
〈提唱者〉米大統領ハーディング
〈参加国〉英・仏・米・日・伊・蘭・中・ポルトガル・ベルギー
*日本の中国進出の規制、海軍の軍縮
四カ国条約
1921
〈締結国〉英・仏・米・日
*太平洋における領土の尊重、日英同盟解消
九カ国条約
1922
〈締結国〉英・仏・米・日・伊・蘭・中・ポルトガル・ベルギー
*中国の領土保全、機会均等、門戸開放
海軍軍備制限条約
1922
〈締結国〉米・英・日・仏・伊
*主力艦保有比率を米5・英5・日3・仏1.67・伊1.67に定める

参考:山川 詳説世界史図録 第2版: 世B310準拠

合衆国では民主党のウィルソン(大統領)のあとをついで、1921年に共和党のハーディングが大統領になった。共和党はアメリカの外交の自由を唱え、国際連盟に反対したが、軍事力によらず国際経済の拡大によって世界の安定をはかる構想をもっており、1921年11月から翌年2月にかけて米・英・仏・日・イタリアなど9カ国が参加するワシントン軍縮会議を開催した。会議では米・英・仏・イタリアの主力艦の保有トン数の上限と保有比率を定めた海軍軍備制限条約が合意され、比率はそれぞれ5:5:3:1.67:1.67とされ、今後10年間主力艦を建造しないことも決められた。また中国の主権尊重・領土保全・門戸開放・機会均等を約束した九カ国条約(前記5カ国にベルギー・オランダ・ポルトガル・中国が加わった)と、太平洋諸島の現状維持を約した米・英・仏・日の四カ国条約も締結され、日英同盟は解消された。これによってアジア・太平洋地域の新しい国際秩序が成立した。なお、会議とは別にこの機会に日中間の交渉がおこなわれ、山東半島の旧ドイツ権益を中国に返還することが決まった。

ヴェルサイユ体制とワシントン体制が、1920年代の国際秩序の主柱となった。

幻の対仏保障条約

フランスは半世紀間で2度もドイツの侵略をうけ、しかも戦前、東からドイツを牽制していた同盟国ロシアを失ったため、自国の安全に不安を抱き、強い保障を求めた。そのためフランスはドイツを弱体化させる高額な賠償を請求したり、国際連盟に軍事同盟的性格を与えることに固執した。米・英もフランスに講和条約以外になんらかの保障を与える必要を認め、それぞれドイツからの攻撃に際して支援を約束する保障条約を提案した。イギリスの対仏保障条約は1919年6月末に調印されたが、その発効は合衆国の対仏保障条約の批准と連動していた。合衆国はヴェルサイユ条約を批准せず、同時に対仏保障条約案も消滅したので、イギリスの対仏保障条約も発効しなかった。フランスが賠償問題で強硬になった背景には、英・米の対仏保障条約が幻に終わったこともあった。

ロカルノ体制と国際協調

シュトレーゼマンは1925年初め、フランスにドイツの西部国境の現状保障協定(集団安全保障協定)締結を打診した。フランス政府も関心を示し、とくに25年4月に外相に就任したブリアン Briand (1862〜1932)は積極的に対応したため、同年10月スイスのロカルノで英・仏・独・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコスロヴァキアの首相・外相会談が開催され、基本的内容が合意された。ロカルノ条約 Locarno とは会議で合意された、ラインラントの現状維持を定めた安全保障条約 、ドイツと隣接4カ国(フランス・ベルギー・ポーランド・チェコスロヴァキア)間の仲裁裁判条約の総称であり、正式調印は同年12月ロンドンでおこなわれ、26年のドイツの国際連盟加盟をもって発効した。ロカルノ会議では、ドイツがライン条約と類似した東部国境保障条約を拒否したため、フランスがポーランドとチェコスロヴァキアとの間で結んだ相互援助条約も成立した。

ライン条約ともいい、これが狭義のロカルノ条約である。

ロカルノ条約は、ヴェルサイユ体制の包括的集団安全保障をドイツの西部国境側に限定させたため、ヴェルサイユ体制を弱めたという側面もあるが、他方ではドイツを国際連盟に加盟させ、国際連盟を軸にした国際政治を強化し、国際協調の機運を高めた側面もあった。連盟本部があるジュネーヴに各国首脳が定期的に集まって、直接交流する光景はこの時期を象徴する一幕となった。ロカルノ会議から世界恐慌が勃発する1929年まで、ドイツのシュトレーゼマン外相、フランスのブリアン外相 、イギリスのオースティン=チェンバレン外相 Austen Chamberlain (1863〜1937)がほぼ一貫してその地位にあったことも、国際協調の流れを支えた要因の一つであった。1927年4月、アメリカ合衆国の大戦参加10周年に際し、ブリアンはアメリカ国民に相互に武力不行使を約束する条約締結を呼びかけ、その後国務長官ケロッグ Kellogg (1856〜1937)に正式に提案した。これをもとに1928年8月、国際紛争の解決手段として武力を行使しないことを宣言する不戦条約ブリアン・ケロッグ条約)に米・英・仏・独・日本など15カ国が調印し、その後賛同国は29年末までに54カ国に上った。

1926年、両者はこの功績でノーベル平和賞を授与された。

国際連盟で取り組まれてきた軍縮と安全保障問題は、1924年ジュネーヴ議定書としてまとめられたが、イギリスなどの反対で成立せず、25年末、連盟はあらためて軍縮会議準備委員会を設置して検討を継続した。一方、アメリカ合衆国はワシントン会議での海軍軍備制限を主力艦以外にも広げることを提案し、27年ジュネーヴに米・英・日3国(フランスとイタリアは参加しなかった)による巡洋艦以下の補助艦の制限会議を開催したがまとまらず、1930年1月のロンドン会議でようやく妥協が成立した(ロンドン海軍軍縮条約)。この結果、米・英と日本の総トン数比率は10:6.975となった。

軍縮条約

ロカルノ条約
1925
提唱者独外相シュトレーゼマン
締結国英・仏・独・伊・ベルギー・ポーランド・チェコスロヴァキア
ラインラントの現状維持と相互不可侵、ヨーロッパの集団安全保障体制 → 独、国際連盟加盟
不戦条約
(ブリアン・ケロッグ条約)
1928
提唱者仏外相ブリアン、米国務長官ケロッグ
締結国米・英・仏・日など15カ国。後63カ国
紛争解決の手段としての戦争を否定
ロンドン海軍軍縮条約
1930
提唱者英首相マクドナルド
締結国米・英・日(仏は不参加、伊は脱退)
補助艦の保有率をほぼ米10:英10:日7に定める

参考:山川 詳説世界史図録 第2版: 世B310準拠