四月テーゼ レーニン
レーニン(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

四月テーゼ

1917年4月、レーニンが発表したボリシェヴィキの革命戦略要綱。臨時政府を認めず、全権力をソヴィエトに移し、議会制民主主義ではなく、ソヴィエト共和国樹立を目指すべきとした。

四月テーゼ

1917年4月、レーニンが発表したボリシェヴィキの革命戦略要綱。臨時政府を認めず、全権力をソヴィエトに移し、議会制民主主義ではなく、ソヴィエト共和国樹立を目指すべきとした。

参考 世界史用語集

二つの世界大戦

第一次世界大戦とロシア革命

ロシア革命

臨時政府はロシアを自由な共和国とし、メンシェヴィキと社会革命党が多数を占める労兵ソヴィエトの支持をえて政治犯の大赦たいしゃ、言論・集会・結社の自由、身分的・宗教的・民族的規制の撤廃などを実現した。しかし、臨時政府の目標は帝政にかわって連合国 の一員として戦争に勝利することであった。ソヴィエト内ではボリシェヴィキは少数派であったが、1917年4月、指導者のレーニン Lenin (1870〜1924)が亡命先のスイスから帰国した。レーニンは革命的祖国防衛主義を批判して戦争の即時中止を求め、労働者と農民からなるソヴィエトが権力を握ることを訴えた(四月テーゼ)。農村では土地を求める農民革命が、ウクライナやフィンランドでは民族革命が並行して進行した。首都の兵士・労働者の間に「いっさいの権力をソヴィエトへ」というスローガンを掲げたボリシェヴィキの影響が広まると、臨時政府は社会革命党のケレンスキー Kerenskii (1881〜1970)を首班とし、自由主義者と社会主義者との連立政府を成立させて態勢を立て直そうとした。しかし、9月にコルニーロフ将軍 Kornilov (1870〜1918)の反政府反乱がボリシェヴィキの協力によって鎮圧されると、革命派の力はいっそう強まった。11月7日(露暦 10月25日)、レーニントロツキー Trotskii (1879〜1940)らは武装蜂起して政府を倒し、政権を握った。ボリシェヴィキと社会革命党左派が多数を占めることになった全ロシア=ソヴィエト会議は、8日から9日にかけてレーニンが書いた「労働者・兵士・農民諸君へ」「平和に関する布告」「土地に関する布告」を採択した。「平和に関する布告」は無併合・無賞金・民族自決の原則による即時講和を全交戦国の人民と政府に呼びかけ、秘密条約の公表を約束した。「土地に関する布告」は地主の土地を無償で没収することなどを定めた。こうしてソヴィエト政権は、二月革命(三月革命)以来国民が求めてきた平和と土地の問題に解決の緒を示したのである。これが十月革命(十一月革命)である。

ロシア革命の経緯年表
ロシア革命の経緯年表 ©世界の歴史まっぷ

参考