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元(王朝) (1271〜1368)

モンゴル人による中国の征服王朝。華北支配を背景に即位したフビライ=ハン(世祖)が、1271年に国号を中国風の元号をたて、1264年、カラコルムから大都(現北京)に都を定め、1271年には国号を中国風に元と称した。1279年南宋を滅ぼし、初めて異民族による中国全土を支配した。フビライの死後政治の腐敗やインフレに天災や飢饉が加わって社会不安は増大し、漢人による紅巾の乱などの農民反乱の後、1368年明(中国)を建国した朱元璋しゅげんしょうが北伐軍を派遣、90年間にわたって中国を支配した元朝はモンゴル高原に退いた。

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元(王朝)

世界史対照略年表(1300〜1800)
世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ

内陸アジア世界の変遷

現(王朝)
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

遊牧民とオアシス民の活動

13世紀初め、モンゴル高原に現れたチンギス=ハンは、近隣の諸民族をつぎぐつぎと征服し、彼とその子孫は短期間のうちに モンゴル帝国と呼ばれる空前の大帝国をきずいた。中国でも、華北を支配する金朝や江南の南宋が滅ぼされ、13世紀後半には 元朝が成立した。元は中国の諸制度を導入し、征服王朝として君臨した。モンゴル帝国の成立はユーラシア大陸の大部分の統一をもたらし、駅伝制の整備やムスリム商人の活躍により内陸の隊商貿易が盛んになった。また宋代に続いてインド洋経由の海上貿易も活発になり、この2つのルートの接点として元には東西の文物が流入し、都の大都は繁栄を極めた。

モンゴル民族の発展

モンゴル帝国の成立

モンケが急死すると、次弟のフビライ(ハン)(1260から1294)が末弟のアリクブケを破って大ハン位に即位した(モンゴル帝国帝位継承戦争)。この内紛を契機にオゴタイの孫のハイドゥもハンを自称してチャガタイ、キプチャク両王家と結んで中央アジアで挙兵し、約40年におよびモンゴル皇帝(大ハーン)フビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このハイドゥの一連の行動は一般に「ハイドゥの乱」と呼ばれる。反乱はハイドゥの戦傷死まで断続的に続いた。

元の東アジア支配

フビライ(ハン)は、即位前に大理国(雲南)や吐蕃(チベット)を攻撃し(雲南・大理遠征)、さらに淮水わいすい以北の華北の統治を任され、漢人の知識人や軍人を重用して中国風の統治政策を採用した。こうした華北支配を背景に即位したフビライは、中国風の元号をたて、1264年、カラコルムから大都(北京)に都を定め、1271年には国号を中国風にげんと称した。

この国号は、易経えききょうの乾の「大哉乾元、万物資始」(大いなるかな乾元かんげん、万物りてむ)にもとづいた。歴代の王朝は、初代皇帝が皇帝になる前の封地の地名から国号をとったが、古典から国号をとったのはこれが初めてである。
大都

現在の北京の直接の起源は元の大都である。1266年、フビライにより金王朝の中都の郊外にまったく新しい壮大な帝都を建設することが命ぜられ、彼の死の直前である1293年に約26年の月日をかけて完成した。大都は、各地に公道が走る内陸交通の起点であるとともに、中心に港をもつ湖水をつくり、運河で海とも繋がる水軍・海軍の起点でもあった。仏教・道教・キリスト教・イスラーム教の施設がたてられ、物資や人、情報は大都に集まった。ただしフビライ自身は大都の宮城に住まうことは少なく、宮廷や軍隊とともに郊外に天幕を張って宿営し、北方にあった上都との間を季節によって移動していた。

その間も南宋への侵攻は続けられ、江南の要衝である襄陽じょうよう鄂州がくしゅうを落とした元軍は、1276年、南宋の首都臨安りんあんを占領した。一部のものは皇帝の一族を擁して南方に逃れ、抗戦を試みたが、1279年、江東沖の崖山の戦いで敗れ、南宋は滅亡した。こうして元朝による中国全土の支配は完成したが、異民族によって中国全土が支配されたのはこれが初めてであった。

元と4ハン国(13世紀の世界地図)
元と4ハン国(13世紀の世界地図)©世界の歴史まっぷ

元朝の領土は、フビライ(ハン)のときに最大となり、モンゴル高原・中国本土・中国東北地方を直轄地とし、チベット・高麗を属国とした。さらに日本征服や南海への遠征を企て、日本をはじめベトナム・カンボジア・ミャンマー(ビルマ)・ジャワに侵攻した(元寇モンゴルのビルマ侵攻)。
1274年と1281年の前後2回の日本遠征(文永の役・弘安の役)は、鎌倉武士の抵抗と暴風雨のため失敗した。
ベトナムの陳朝への3回にわたる遠征は、いったんは首都ハノイを占領したものの民衆の激しい抵抗によって撃退された。
また1292年のジャワ遠征でも、元軍は大損害をこうむり撃退された。

元は中国の君主独裁体制の機構を継承し、中央には中書省(行政)・御史台(監察)・枢密院(軍政)を根幹とする中央集権的支配機構を組織した。地方の行政機構では、従来の州県制を継承し、さらにその上級の行政区画として行中書省こうちゅうしょしょうが設けられ、路以下には監督官としてモンゴル人のダルガチが任命された。

行中書省:本来は中書省の出先機関であり、腹裏ふくりと呼ばれる直轄地(河北・内モンゴル・山西・山東)以外に、10の行中書省がおかれ、路・府・州・県を統率した。略して行省と呼ばれ、現在の中国の地方行政の単位である省という名称は、これをさらに略したものである。

また、中央政府の要職や地方行政機関の長を少数のモンゴル人が征服者として独占した。しかし、圧倒的多数を占める中国人を支配するためには第三者の協力を必要とした。これが色目人しきもくじんと総称されたウィグル、タングート、イランをはじめとする中央アジア、西アジア出身の諸民族である。彼らは元朝の財政面で重要な役割を果たした。

色目人:諸色目人(諸種類の種族に属するもの)の略称であって、目の色とは関係がない。

一方、人口の大多数を占める中国人については、旧金朝支配下の華北の住民は漢人と呼ばれ、また旧南宋支配下の江南の住民は南人と呼ばれた。

淮水以北の中国人(漢族)のほか、契丹人・女真人・渤海人・高麗人が含まれる。

元朝の高級官僚の任用は、世襲や恩蔭おんいんによっておこなわれたために科挙は一時廃止され、中国人の士大夫階級は、高級官僚への道を閉ざされてしまい、末端の実務を担当する胥吏しょりにならざるをえなかった。

恩蔭おんいん任子にんしともいい、皇帝からの恩典として、父祖の官僚によってその子孫も相当の官職につける制度
本来、中国では、高級官僚(官)と下級役人である胥吏しょり(吏)とは厳然と区別され、胥吏から官僚に昇進するものはまれであった。しかし、元朝は官僚を登用する科挙を停止したので、中国人は、胥吏をへて官僚に昇進するしかなく、こうして官僚と胥吏との隔たりはなくなった。

やがて士大夫階級を懐柔するために、14世紀前半、元朝第4代仁宗(アユルバルワダ)が科挙を復活したが、武人や実務に従事する官僚が重視されたため、漢人、南人には不利なものであった。

元は中国全土を征服したが、直接支配できたのは旧金朝支配下の華北だけであり、江南では宋代以来の地主層の勢力が温存され、地主佃戸制が従来通り継続された。
税制面でも、華北ではあらたに税糧ぜいりょう科差かさが施行されたが、江南では南宋以来の両税法が継承された。また、モンゴル人などの支配層は、強力な武力を背景に重税を課したので、中国人農民の元朝への不満は高まった。

税糧:地税・丁税のうち高額の方を課税する制度、科差とは、絹糸と銀を戸ごとに課税する制度で、とちらも江南では適用されなかった。
両税法:五代以後の両税は、田賦(土地にかかる税)に近いものとなり、銭納の原則も忘れ去られて穀額で表示され、穀物で納入された。またその他の税もつぎつぎとつくられ、諸税のなかのひとつの税目となった。しかし農村の主たる税目の地位は動かず夏秋に徴収された。

フビライの死後、元朝内部では皇位継承をめぐる相続争いが続いた。元朝になってからも皇位継承の制度が確立されず、クリルタイで後継者を決定する習慣が残っていたため、一族・重臣の間で激しい権力争いが生じた。

経済上では、宮廷での濫費や、歴代の皇帝によるチベット仏教の信仰や寺院の建立などによって、莫大な国費を費やしたため財政は窮乏した。元朝は、財政難を切り抜けるための交鈔こうしょうを濫発し、専売制度を強化したが、かえって物価騰貴を招き、民衆の生活を苦しめた。

こうした政治の腐敗やインフレに天災や飢饉が加わって、社会不安は増大し、各地で農民の暴動が相次いだ。なかでも弥勒信仰みろくしんこうにより強固に団結した白蓮教徒びゃくれんきょうとは、教主韓山童かんざんどうに指導され、1351年、紅巾の乱白蓮教徒の乱)をおこした。

白蓮教徒びゃくれんきょうと:白蓮教は、弥勒仏の信仰からでたもので、やがて弥勒が降臨して衆生しゅじょうを救済すると説いた(弥勒下生説)この教えをもとに宗教結社がつくられ、反乱を展開した。
韓山童かんざんどう:「徽宗(宋)八世の孫」と称し、モンゴル人王朝の打倒と漢族王朝の復興を呼びかけた。
黄巾の乱をおこした農民たちが目印に紅色の頭巾をまとったことから紅巾の乱と呼ばれた。

韓山童が殺害されたのちも、その子の韓林児かんりんじを擁して黄巾軍が蜂起を続けると、黄河流域から長江流域にかけての各地で元朝打倒を叫ぶ群雄が割拠した。江南デルタの穀倉地帯を奪われ、大都への食料供給も不可能となり、1368年、江南に明(中国)を建国した朱元璋しゅげんしょうが北伐軍を派遣すると、90年間にわたって中国を支配した元朝はモンゴル高原に退いていった。

交通・貿易の発達

遊牧民国家であるモンゴル帝国は、早くから東西貿易における商品課税の利益を重視し、隊商の交通路の整備や治安の確保に努めた。オゴタイ=ハンはカラコルムに都を定めると、これを中核として帝国全土に幹線道路をはりめぐらす駅伝制を整備した。
この制度は、モンゴル帝国ではジャムチと呼ばれ、1日行程ごとにたん(駅)が設けられた。牌符はいふをもった公用の使臣や軍官には、宿泊や食料・駅馬が提供された。

牌符はいふ牌子ぱいざとも呼ぶが、金碑、銀碑、銅碑、木碑、海青碑、円碑などの種類があり、金碑、銀碑は使臣や軍官が駅伝を利用する際に、海青碑、円碑は軍事上、急を要する祭に発給された。この牌符をもつものの安全は確実に保証され、ハイドゥの乱のときも無事に中央アジアを横断できたという。
駅伝を維持、管理するため、付近の民戸100戸と站戸に任じて食料や駅馬さらには労役を提供させた。站戸には若干の免税措置がとられたが、その負担は大きなものであった。

その結果、東は渤海地方から西は黒海にいたる広大な領域が緊密に結合され、また帝国内の交通は安全かつ便利になり、おもにムスリム商人による内陸貿易が活発になった。こうして貿易は、東アジアから中央アジア、西アジアを経て遠くヨーロッパにもおよび、東西の文物の交流が盛んになった。

また、元代にはムスリム商人の活躍により、インド洋、南シナ海を中心に、南海との通商が東西貿易の主流となった。
とりわけ元は、中国の卓越した生産力と商業発展を基礎にこの海上貿易に積極的に加わり、江南の杭州明州泉州広州などの港市が繁栄した。

マルコ・ポーロは『世界の記述』の中で、杭州をキンザイ(宋の臨時宮廷=安西に由来)、泉州をザイトン(泉州城の別名刺桐城しとうじょうに由来)の名で紹介し、とくに泉州を世界最大級の貿易港と述べている。南宋末から元にかけて、泉州の市舶司長官として実権を握っていたのは、アラブ系(またはイラン系)の豪商蒲寿庚ほじゅこうという人物であった。

こうした海陸の交通路の発達により、多くのムスリム商人が中国に入り、モンゴル人皇帝や貴族の領地内での徴税請負や高利貸しを行なうようになった。これらのムスリム商人は、斡脱あつだつ(オルトク)と呼ばれ、チンギス=ハンの時代以来、資金源、情報源としてモンゴルの発展と密接な関係にあった。

ムスリム商人と銀の流出

当時イスラーム世界の東部では銀が不足しており、中国から銀をもち出せば交換レートの差により大きな利益がえられた。そこで斡脱あつだつと呼ばれたムスリム商人は、中国の銀を集めるため、科差かさのひとつである包銀ほうぎんの施行を元朝に提案したといわれる。包銀は中国初の銀による納税で、科差のもう片方の糸料しりょう(絹糸で納税する)とともに華北でしか施行されなかったが、納税者である農民に銀の需要を高めた。さらに斡脱は、こうした納税のために銀を必要とする農民相手に高利貸しを営み、複利式年利10割の高利で銀を搾りとってイスラーム世界に流出させた。また、この利率だと、元利ともに年々2倍になり、羊が子羊をどんどん産んでいくようすに似ているとして、羊羔利ようこうり羊羔児息ようこうじそくと呼ばれて中国人に恐れられた。

通恵河開削

13世紀末、世祖フビライは、人口の増加した首都大都に江南から食料を運ぶため、隋代以来の大運河を補修するとともに、新たに大都と通州との間に通恵河つうけいが(全長80km)を開削かいさくした。
これによって華北と江南を結ぶ大運河のほか、渤海湾に面した直沽ちょくこ(現天津)からの開運物資も大都に運ぶことが可能となり、江南から山東半島を回って大都方面にいたる海運も発達した。
新しい運河は大都の中心の積水潭せきすいたんまでつながり、大都は内陸都市でありながら港をもつようになった。こうして元の首都大都は名実ともに海陸の交通の拠点となり、元末には人口は100万に達した。

モンゴル帝国では当初、銅銭や金・銀が貨幣として用いられたが、オゴタイ・ハン、フビライ・ハンの時代には、金朝にならって交鈔こうしょうが発行された。
この紙幣は、従来のような補助通貨ではなく、元朝は、唯一の通貨として紙幣一本建ての政策をとった。しかし、のちに濫発による猛烈なインフレを招き、元の滅亡の原因となった。

元朝の通貨政策

世祖フビライの時代に、中統鈔ちゅうとうしょう至元鈔しげんしょうの2種類の交鈔が発行されたが、これ以来、紙幣一本建ての通貨政策が元末まで維持された。13世紀後半、生糸や金銀との兌換だかんが停止され、交鈔の価値は下落したが、それでも不換紙幣として元末まで発行され続けた。交鈔には、南宋の紙幣のように有効期間が設けられず、毎年、1000万貫から1億貫の巨額が発行されながらも、滅亡の直前までこの通貨制度は存続した。このように紙幣の暴落や通貨制度の崩壊を招いてもおかしくない交鈔であったが、その価値を維持しえたカラクリは塩課えんか(塩税)にあった。塩は歴代の王朝により専売に指定され、その売価は国家に管理された。従来は民衆が塩を買うときは銅銭で代金を支払っていたが、元朝はこれを交鈔に限定した。すなわち、交鈔をもっていなければ塩が買えなかったのである。いわば交鈔は、塩を本位とした通貨制度であった。このような巧妙な制度をきずいた世祖フビライを、マルコ・ポーロも『世界の記述』で「最高の錬金術師」と賞賛している。

諸地域世界の交流

海の道の発展

元朝も海上交易を奨励し、特に泉州は世界有数の貿易港に成長した。元朝は2度にわたり日本に出兵した(元寇)が、日元間の交易は盛んに行われ、貿易船を利用した僧侶の往来も多かった。このように宋代・元代の時代には海の道による交易の著しい発展がみられ、政府も港に市舶司しはくしを設置して関税の徴収や貿易の統制を行なった。

市舶司:唐の中期に設置された。明代には朝貢使節の接待を職務とした。

14世紀半ば、元朝の力が衰え、日本でも南北朝の騒乱の時期になると、私貿易がさかんに行われるようになった。この中で東シナ海で倭寇わこうの活動が活発化し、朝鮮半島や中国の沿岸で交易とともに、食料や人間の略奪を行なった。この14世紀を中心とする倭寇を前期倭寇と呼ぶ。

倭寇:倭寇とは「日本人の盗賊」を意味する朝鮮・中国による呼称。構成員は一概に日本人ばかりとはいえない複雑なものであった。とくに16世紀を中心とした後期倭寇は中国人が大半を占めたと記録されている。

参考

歴代皇帝

  1. 世祖フビライ(1271年 – 1294年)
  2. 成宗テムル(1294年 – 1307年) フビライの次男チンキム(裕宗)の三男。
  3. 武宗カイシャン(1307年 – 1311年) チンキムの次男ダルマバラ(順宗)の子。テムルの甥。
  4. 仁宗アユルバルワダ(1311年 – 1320年) ダルマバラの次男。武宗カイシャンの弟。
  5. 英宗シデバラ(1320年 – 1323年) アユルバルワダの長男。
  6. 泰定帝イェスン・テムル(1323年 – 1328年) チンキムの子カマラ(顕宗)の長男。
  7. 天順帝アリギバ(1328年) イェスン・テムルの長男。
  8. 文宗トク・テムル(1328年 – 1329年) カイシャンの次男。
  9. 明宗コシラ(1329年) カイシャンの長男。トク・テムルの兄。
  10. 文宗トク・テムル(復位、1329年 – 1332年)
  11. 寧宗イリンジバル(1332年) コシラの次男。
  12. 恵宗トゴン・テムル(1333年 – 1368年) コシラの長男。イリンジバルの兄。

キヤト・ボルジギン氏系図

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