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モンゴルのグルジア侵攻 (13世紀)
当時グルジア人自身によって統治されていたグルジア王国、アルメニア、コーカサスの諸地域が13世紀を通じてモンゴル人の勢力によって数度にわたって侵略され、大規模な襲撃をうけた歴史事象を意味する。

モンゴルのグルジア侵攻

モンゴルのグルジア侵攻 対金戦争 モンゴルのルーシ侵攻 チンギス=ハンの西征
モンゴル帝国の侵攻

グルジア王国に対する1度目の侵入

1219年〜

モンゴルのホラズム・シャー朝征服

1219年から1222年
モンゴル帝国がコーカサスの地に最初に現れたのは1220年、東方からイラン高原西部に侵入して来たからモンゴルのスブタイ、ジェベ両将軍との戦闘(モンゴルのホラズム・シャー朝征服)からであった。
1210年代末までにマーワラーアンナフルからイラン高原まで支配圏を拡大していたホラズム・シャー朝であったが、前年の1219年にチンギス=ハンの親征軍によってホラズム・シャー朝は事実上壊滅し、ホラズム・シャー朝の第7代スルターン・アラーウッディーン・ムハンマドはマーワラーアンナフルを放棄してイラン高原で再起を図ろうとしてたが、チンギス=ハンによってスルターン捕縛の命令を受けたジェベ・スブタイの両将は2万騎の軍勢をもってスルターンを狙いイラン高原に侵入し、各地を追撃していた。
しかし、モンゴル軍はスルターン・ムハンマドの軍勢を各地で壊滅させたもののスルターン本人の捕縛には至らず、両将軍はイラン高原北西部のアーザルバーイジャーン地方まで侵入すると、現地のイルデニズ朝や隣接するグルジア王国の軍勢と交戦する事になった。
一連の奇襲によってグルジア軍およびアルメニア軍は打ち負かされたが、ジェベ・スブタイの両将は一旦カスピ海を西回りで北上してモンゴル高原に帰還する事になった。

カルカ河畔の戦い

1223年
この帰還途中でモンゴル軍は北方のキエフ・ルーシとも交戦しカルカ河畔の戦いではキエフ・ルーシの軍勢をも壊滅させた。

一方、ムハンマド2世の息子でホラズム・シャー朝を継いだ第8代ジャラールッディーン・メングベルディーは、チンギス=ハンに敗れて一度インドへ亡命するが、再びイラン高原に舞い戻ってホラズム・シャー朝再興を目指してモンゴル軍の影響が薄らいだ間隙を突いて、イラン高原周辺の諸勢力と同盟と交戦を繰り返した。
ジャラールッディーンはイルデニズ朝を滅ぼし、一時はグルジア王国の首都ティフリスをも陥落させたが、同盟を当て込んでいたルーム・セルジューク朝からの襲撃で敗退し、次第に劣勢を余儀なくされていた。
1230年に入るとチンギス=ハンの後を継いだ第2代皇帝オゴタイ=ハンは、北インド国境とイラン高原にそれぞれに現地防衛戦力として駐留軍(鎮戍軍:探馬赤、タン軍)を派遣した。特にチョルマグン(Chormaqan)率いる3万騎のイラン駐留軍は、ジャラールッディーン討伐を意図したものであった。

グルジア王国に対する2度目の侵入

1231年〜
コーカサスに対するモンゴルの2度目の侵入はオゴタイ=ハンの命令の下、1231年のチョルマグン将軍による対ジャラールッディーン・メングベルディー遠征に始まった。
ジャラールッディーン・メングベルディーの軍勢はイラン入りしたモンゴル軍の奇襲を受けて壊滅し、ジャラールッディーンは逃亡中にマイヤーファーリキーン市付近の山中で現地のクルド人らによって殺害された。
ファールス(現イラン ファールス州)のサルグル朝、ケルマーン(現イラン ケルマーン州)のケルマーン・カラヒタイ朝等、イラン南部の諸王朝は自らモンゴルに服属し、貢租を納めることに同意した。
さらに西のハマダーンとペルシアの残りの地域はチョルマカンによってモンゴル支配が確実なものとなった。
1236年、モンゴルは反転してアルメニアとグルジアに注意を向けた。
1236年、オゴタイ=ハンはホラズム・シャー朝との戦闘で荒廃していたイラン高原東部のホーラーサーン地方とヘラート(現アフガニスタン)の再建を命じ、これらの中央アジアからの人員による入植を開始させた。
オゴタイ=ハンの命によってイラン高原周辺の民政を統括していたイラン総督府は主にホラーサーンや隣接するカスピ海南岸のマーザンダラーン、ゴルガーン地方を拠点としていたが、チョルマグンらイラン駐留軍の本陣は前線であるアーザルバーイジャーン地方を中心に、たいていはムーガーン平原に冬営地を築いた。
モンゴルの危険性を悟ったモースルとキリキア・アルメニアの支配者は大ハーンに服従した。
チョルマカンは南コーカサス地方を軍隊の階層に応じて3つの地域に分割した。グルジアでは一時、8つの万人隊(トゥメン)に組織された。
1237年中にはモンゴル帝国はアッバース朝のイラクとイスマーイール派の要塞をのぞくペルシアの大部分と、アフガニスタンおよぼカシミール全域を服属させた。
モンゴルは1237年に北コーカサスの征服におよんだが、ここでは現地の人々による必死の抵抗に遭遇した。
1238年、グルジア王国の征服を完了し、セルジューク朝の影響下にあったアルメニア王国南部の諸領土の攻撃を開始した。

キョセ・ダグの戦い

1243年
その後、モンゴルによるコーカサス・東アナトリアの本格的な征服は1236年に始まり、1243年にキョセ・ダグの戦いでルーム・セルジューク朝軍がモンゴル軍に敗退すると、コーカサス周辺からアナトリアに掛けての地域におけるモンゴル帝国軍の優位は決定的となった。
こうしてグルジア王国ルーム・セルジューク朝トレビゾンド帝国は征服され、キリキア・アルメニア王国と他の十字軍国家はみずからモンゴル帝国に服属した。
以後これらの地域はオゴタイ=ハンの命令によってイラン高原に進出したイラン駐留軍と、イラン高原周辺の民政を統括するイラン総督府の監督下に置かれるようになる。

キョセ・ダグの戦いののち、バイジュ・ノヤン(バイジュ (モンゴル部))配下のモンゴル勢力はアナトリアを占領し、ルーム・セルジューク朝とトレビゾンド帝国はモンゴルの属国となった。
ペルシアとコーカサスではいたるところに暗殺教団の要塞が分散して設営されていたが、皇帝モンケの意向を受けたフレグの指揮下、1256年より本格的な攻撃が開始され、当該地方から暗殺教団を根絶した。

モンゴル支配

フレグの西征

1253年から1260年
1250年代にはモンゴル帝国第4代皇帝モンケが実弟フレグを派遣して西アジア方面の遠征を再開させ、イラン駐留軍とイラン総督府もフレグの指揮下に入った(フレグの西征)。
これにより、グルジア王国、アルメニア王国、ルーム・セルジューク朝等のモンゴル帝国に下った諸勢力もフレグの統括下になった。
フレグの遠征軍によって暗殺教団として恐れられたニザール派も事実上壊滅し、さらにはバグダードのアッバース朝カリフ政権も滅ぼされた。
モンゴルはまたズルドスケティア、現在のチェチェン共和国に侵入したが、そこでは継続的な抵抗に直面した。

バグダードの戦い

1258年
フレグ率いるモンゴル軍は、当時世界で最も栄華を誇っていたと言われるイスラム帝国・アッバース朝の都バグダードでアッバース朝に勝利し、(バグダードの戦い)1週間にわたって虐殺、略奪、破壊を繰り広げた。

モンゴル帝国帝位継承戦争

1260年から1264年
1259年にフレグを派遣した皇帝モンケが没するとモンゴル帝国は内戦に陥り、1264年のフビライが第5代モンゴル皇帝として即位まで、グルジア、アルメニア、アーザルバーイジャーンといったコーカサス周辺の諸地域はジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)のベルケとイルハン朝のフレグがその領有を巡って争奪する主戦場となった。

これは、「モンゴル・南宋戦争」遠征中にモンケが陣没したことによって空位となった皇帝(カアン)位を巡り、その実弟同士であったフビライとアリクブケの間の対立がおこしたトルイ家の内戦(モンゴル帝国帝位継承戦争)の一環であった。
主として侵略と襲撃からなる戦争がコーカサスのいたるところ、双方から引き起こされた。
それはマムルーク朝を支援するベルケと東ローマ帝国を支援するフレグのあいだの代理戦争の様相を呈したが、そのいずれも真の利益を享受することができず、フビライが東方での勝利によって帝国諸王家に対し統一クリルタイ開催にむけての停戦勧告を発すると、これに従って両家は休戦した。

グルジア王国の再建と崩壊

モンゴルのコーカサス支配は1330年代までつづき、拡大されたアルメニアは1220年から1344年までモンゴル支配にとどまった。
この間、ギオルギ5世光輝王の統治下(1299年-1302年、1314年-1346年)、グルジア王国を短い期間再統一、再建した。

ティムール朝が西アジアの地に成立する以前、グルジアのほとんどはモンゴルのジャライル朝チョバン朝の影響下にあった。
1386年から1403年にかけて、モンゴル=テュルク系の征服者であるティムールが8回にわたってグルジア全土を猛襲し、グルジア王国はティムール朝侵入によって最終的に崩壊した。

1491年頃までには、グルジアは小さな3王国といくつかの公国に分断され、1801年にロシア帝国に併合されるまでの間、近世を通じてサファヴィー朝(ペルシア)とオスマン帝国(トルコ)の強い影響力のもと、自らの独立を守るための苦闘がつづいた。

Wikipediaより

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