ニコライ2世
ニコライ2世(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

アレクサンドル3世

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ニコライ2世 Nikolai II (A.D.1868〜A.D.1918)

ロマノフ朝最後の皇帝(在位1894〜1917)。在位中に日露戦争・第1次ロシア革命第一次世界大戦。シベリア鉄道を完成し極東進出をはかったが日露戦争の敗北で挫折。1917年の二月革命(三月革命)で退位し、社会主義政権成立後に処刑された。

ニコライ2世

  • ロマノフ朝最後の皇帝(在位1894〜1917)。在位中に日露戦争・第1次ロシア革命・第一次世界大戦がおこった。1917年の二月革命(三月革命)で退位し、社会主義政権成立後に処刑された。
  • シベリア鉄道を完成し、極東進出をはかったが、日露戦争の敗北で挫折した。1905年の第1次革命では皇帝権を維持したが、第一次世界大戦中におこった二月革命(ロシア革命)で退位を余儀なくされ、臨時政府によって自由を剥奪された。十月革命でボリシェヴィキが政権を獲得すると、家族とともに革命派によって処刑された。

参考 世界史用語集

ニコライ2世一家とラスプーチン

ニコライ2世と皇后アレクサンドラの間には、皇太子アレクセイ(右から2人目)と4人の娘がいた。シベリア出身の宗教家ラスプーチンは、皇太子の血友病に悩む皇后に取り入って宮廷内で大きな影響力をもつようになった。第一次世界大戦中には政治にも介入したが、1916年12月に帝政の権威復活をめざす右翼議員と皇族に暗殺された。皇帝一家は、1918年7月にボリシェヴィキに銃殺された。一家の遺骨は1979年にいったん発見されたが、当時のソ連政府はこれを隠蔽したため、遺骨の確認がされたのは1991年以降のことであった。

参考 山川 詳説世界史図録 第2版: 世B310準拠

ニコライ2世
ニコライ2世と家族(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
ニコライ2世家族
ニコライ2世一族の写真(1913/左からオルガ、マリア、ニコラス2世、アレクサンドラ、アナスタシア、アレクセイ、タチアナWIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
ラスプーチン
ラスプーチン(1910/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

革命運動を弾圧した皇帝

ロシア最後の皇帝。皇太子時代に来日し大津で暗殺されかけた。26歳で即位。その後10年弱で日露戦争、20年弱で第一次世界大戦がはじまる。最高司令官として前線で指揮をとった第一次大戦中には二月革命(三月革命)まで勃発、退位する。十月革命後は家族とともに監禁状態となり、翌年、家族ともども革命派に銃殺された。

参考 ビジュアル 世界史1000人(下巻)

欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

国際的諸運動の進展

ハーグにおいて国際平和に関する会議(バンコク平和会議 1889, 1907)がロシアのニコライ2世の提唱によって開催された。ここで国際平和が追求され、戦争法規にかかわるもの(毒ガスの禁止、捕虜協定など)が決定され、国際仲裁裁判所が1901年バーグに設置された。

アジア諸地域の動揺

アジア諸地域の動揺
アジア諸地域の動揺
中国のケーキ(アンリ・マイヤー画/フランス国立図書館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

日清戦争終結から3年後、列強がこぞって中国を分割する様を描いています。この年、各国による租借、占領、割譲などが次々に行われました。図の左からイギリスのヴィクトリア女王、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) 、ロシアのニコライ2世、フランスの象徴である女性像マリアンヌ、そして日本を象徴するサムライ。背後には清国人がなすすべもなく手を上げています。 参考: おもしろい世界の風刺画 (OAK MOOK)

帝国主義とアジアの民族運動

帝国主義と列強の展開

ロシア

奉天会戦での敗北(3月)、バルト海艦隊の壊滅(5月)によってロシア指導部が動揺するなか、黒海艦隊のポチョムキン号で水兵の反乱(戦艦ポチョムキンの反乱)もおきた。10月に革命は最高潮に達し、労働者・鉄道員・学生・商店主・市民・役人を含む大規模なゼネストが全国に広まり、交通・通信はストップした。この革命の際にペテルブルクで労働者代表の自治組織ソヴィエト Soviet (評議会)が初めてつくられ、ロシア社会民主労働党や社会革命党が結集した。皇帝ニコライ2世(位1894〜1917)はヴィッテら自由主義者たちの進言にもとづいて十月宣言を発し、立法権をもつ国会ドゥーマ Duma )の開設と市民的自由を認めた。これをうけて自由主義者たちは議会活動にむけて立憲民主党(カデット)などの政党を結成したのに対して、ソヴィエトはモスクワで蜂起したが鎮圧され、革命運動には厳しい弾圧が加えられた。

二つの世界大戦

第一次世界大戦とロシア革命

ロシア革命

第一次世界大戦が勃発するとロシアでも、ボリシェヴィキとメンシェヴィキをのぞいて国会は政府との戦争協力体制に入った。しかし、緒戦しょせんのタンネンベルクの戦いで敗北を喫したあと、1915年春から夏にかけてのガリツィアとポーランドでも大敗して挙国一致体制は激しく動揺した。前線の兵士の間には厭戦えんせん気分が広まり、1916年夏には、労働運動が再び高揚し、中央アジアの諸民族も動員に抗議して蜂起した。鉄道など交通網の不備から都市への食料・燃料の供給は低下する一方であったが、ロシア帝国の北西隅にある首都ペトログラードでは事態はいっそう深刻であった。革命は自然発生的な大衆運動として始まった。1917年3月8日、国際婦人デーの日にペトログラードの女性労働者が「パンよこせ」のデモを始めると、デモは専制打倒と平和を求める全市的なゼネストに発展した。兵士もこれに合流し、各地に労働者・兵士のソヴィエト Soviet が組織された。ソヴィエトの動きを警戒した国会は自由主義諸党派を中心に臨時政府を成立させ、皇帝ニコライ2世は退位した(二月革命(三月革命) 。ここにロマノフ朝は崩壊したが、ソヴィエトと臨時政府が並立する二重権力の状況が出現し、以後いっきょに国会の解体が進むことになった。

参考

近代国家の成立

立憲国家の成立と日清戦争

条約改正
大津事件

ウラジヴォストークにおけるシベリア鉄道起工式に出席する途中、日本に立ち寄ったロシア皇太子ニコライ=アレクサンドロヴィッチ=ロマノフ( Alexandrovich Romanov, のちのニコライ2世 Nikolai II, 1868〜1918)が、1891(明治24)年5月、滋賀県大津で警固の巡査津田三蔵(1854〜91)に襲われて負傷した。これが、いわゆる大津事件である。ロシアの報復を恐れて、日本の朝野は色を失い、明治天皇自ら皇太子を見舞った。政府は日本の皇室に対する犯罪の刑罰を適用して犯人を死刑にするよう司法部に圧力をかけたが、大審院(院長児島惟謙こじまこれかた、1837〜1908)はこれを拒否し、部下を指揮して一般の謀殺未遂罪として無期徒刑の判決を下して、司法権の独立を守った。

参考

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