スペイン・ハプスブルク朝
スペイン・ハプスブルク朝のころにおけるスペイン帝国(赤はスペイン王国、青はポルトガル王国)の領土、植民地、属領(1580年 – 1640年)©世界の歴史まっぷ

スペイン・ハプスブルク朝 (A.D.1516〜A.D.1700)

イベリア半島を統一した、カトリック両王(フェリペ1世(カスティーリャ王)・フアナ(カスティーリャ女王))の長男カルロス1世が祖父マクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)の死後1516年スペイン王に即位、1519年にカール5世(神聖ローマ皇帝)に即位してからカルロス2世(スペイン王)の死によって断絶するまでのハプスブルク家によるスペイン統治時代を指す。

スペイン・ハプスブルク朝

世界史対照略年表(1300〜1800)
世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ

スペインの統合を成立させたカトリック両王(フェルナンド2世(アラゴン王)イサベル1世(カスティーリャ女王))は男子がなく、娘のフアナ(カスティーリャ女王)の嫁ぎ先、神聖ローマ帝国皇太子フェリペ1世(カスティーリャ王)(共同統治)とのあいだに生まれたカルロス(すでにネーデルラントを相続していた)がスペイン王位を継承し、1516年、スペイン・ハプスブルク朝が始まった。スペイン王カルロス1世(位1516〜1556)は1519年、対立候補のフランソワ1世(フランス王)を破って神聖ローマ皇帝に選出されてカール5世(神聖ローマ皇帝)となった。その領土は「太陽の沈まない国」と称され、スペインとネーデルラントのみならず、ドイツ、南イタリア、新大陸、アジア(フィリピン)にいたる世界帝国を築き上げた。スペインが史上最も繁栄した時期であり、黄金世紀と呼ばれている。

アジア諸地域の繁栄

東アジア・東南アジア世界の動向

朝貢体制の動揺

明朝は16世紀後半、海禁をゆるめざるをえなくなった。その結果、当時急速に生産量をのばしていた日本銀、ついでフィリピンのマニラを拠点としたスペインによってアメリカ大陸で採掘されたメキシコ銀(墨銀)が貿易の代償として大量に中国に運ばれた。

スペイン:1571年に、フィリピンにマニラ市を建設した。スペインはポルトガルの妨害で直接中国と交易できなかったので、マニラに来航した福建の商人をつうじて絹などの商品を買い付け、その代価をメキシコのアカプルコから運びこんだメキシコ銀(墨銀)で支払った。こうした交易をアカプルコ貿易という。

朝貢体制の動揺 – 世界の歴史まっぷ

諸地域世界の交流

海の道の発展

世界の一体化と銀

15世紀終わりから、ポルトガルとスペインによる新航路の開拓が進み、16世紀には、地球上の大陸や海域は船によって結び付けられ、世界の一体化が始まった。この時期の遠隔地貿易の拡大を支えたのがの増産であった。

またスペイン領アメリカのポトシ銀山(ボリビア)では、新しい製錬技術の導入と先住民に強制したミタ労働の導入により1570年代から爆発的な銀の産出が始まった(アメリカ銀もしくはメキシコ銀と呼ぶ)。銀の多くは大西洋を超えてスペイン経由でヨーロッパに運ばれ、価格革命を引き起こした。
ポトシ市街
ポトシ市街 photo credit: tjabeljan BoliviaPotosi006 via photopin (license)

一方で、産出された銀の一部は、メキシコのアカプルコ港から太平洋を横断してフィリピンのマニラにも運ばれた(アカプルコ貿易もしくは16世紀に造船が始まったガレオン船を使用したためガレオン貿易と呼ぶ)。その銀は、マニラから中国商人の船を経て、中国に流れていった。

ミタ労働:1573年に導入されたアンデス周辺の先住民に強制された輪番制の労働システム。安価な労働力を銀山に安定供給することを目的とした。ミタとは輪番・順番を意味するケチュア語。
スペイン・ポルトガルの進出地図 ©世界の歴史まっぷ
スペイン・ポルトガルの進出地図
1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカに到着した翌1493年にスペインのバルセロナで流行した梅毒は、開拓されたインド航路によりアジアに広まり、インドからマレー半島をへて、1512年には日本に上陸した。鉄砲伝来より30年も早い。

世界の一体化と銀 – 世界の歴史まっぷ

近代ヨーロッパの成立

ヨーロッパ世界の拡大

新大陸の征服とコンキスタドールの活動

アメリカ大陸のスペインの探検事業は16世紀前半、征服事業へと発展する。征服事業は征服者(コンキスタドール)と呼ばれる、勇敢でかつ残虐な男たちによって進められた。中央アメリカのパナマ地峡とその一帯の征服を行なったバスコ・ヌーニェス・デ・バルボア、メキシコを征服したエルナン・コルテス(1485〜1547)、ペルーを征服したフランシスコ・ピサロ(1470頃〜1541)らがその代表である。

エルナン・コルテス
スペインの貧しい貴族出のエルナン・コルテスはキューバ総督の命をうけ、メキシコを探検、1520年ベラクルス市を建設し、わずか400人ほどの部下を率いてテノチティトランに進撃し、計略でアステカ国王モンテスマ(モクテスマ2世)(1480頃〜1520)を捕らえ、これを占領した。一時、アステカ人の反撃で撤退するが、1521年この都市を再占領し、アステカ王国を滅ぼした。
新大陸の征服とコンキスタドールの活動
モクテスマ2世とコツテスの会見 ©Public Domain

アステカ王国の首都テノチティトランで皇帝モクテスマ2世(左に座っている人物)とスペイン人コルテス(右に座っている人物)が会見している。コルテスの背後にいるのは通訳をしているインディオ女性のマリンチェ。

フランシスコ・ピサロ

バルボアに仕えた士官であり、勇気・決断力・無慈悲さを兼ね備えていたピサロは同僚のアルマグロとともに、1524年からペルーの予備的な探検をおこない、1532年、17頭の馬と180の歩兵を率いて、インカ征服の遠征をおこなった。彼はインカ帝国の内紛を利用して、皇帝アタワルパ(1500頃〜1533)を捕らえて処刑し、1533年、帝国を征服した。

1537年には現在のコロンビアを中心とする新グラナダも征服され、スペインは中南米に広大な植民地を有することになった。

近代ヨーロッパの成立年表

 イタリア・ルネサンス(14〜16世紀)
1450頃ヨハネス・グーテンベルク、活版印刷技術発明
1488バルトロメウ・ディアス、喜望峰到達
1492スペイン、グラナダを占領(レコンキスタ完了)
 クリフトファー・コロンブス、アメリカに到達
1494トルデシリャス条約(スペイン・ポルトガル)
1495レオナルド・ダ・ヴィンチ最後の晩餐」制作(〜1498頃)
1498ヴァスコ・ダ・ガマ、カリカットに到達
1517マルティン・ルター、九十五カ条の論題発表
1519フェルディナンド・マゼランの部下、世界周航(〜1521)
1521エルナン・コルテス、アステカ帝国征服
 イタリア戦争(第三次イタリア戦争 〜1526)
1524ドイツ農民戦争
1529オスマン軍の第一次ウィーン包囲
1533フランシスコ・ピサロ、ペルーのインカ帝国征服
1534国王至上法発布(イギリス国教会成立)
 イエズス会設立
1541ジャン・カルヴァン、ジュネーヴ市政掌握
1543ニコラウス・コペルニクス『天球回転論(地動説)』刊
1545トリエント公会議(〜1563)
 16世紀後半、価格革命おこる
1555アウクスブルクの和議(ルター派の信仰認められる)
1558エリザベス1世の即位(〜1603)
1559カトー・カンブレジ条約(イタリア戦争終結)

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マゼランと世界周航
大航海時代地図
大航海時代地図 ©世界の歴史まっぷ

世界周航を初めて成し遂げたのはフェルディナンド・マゼラン(マガリャンイス 1480頃〜1521)である。ポルトガル人のマゼランは、ポルトガル王の不興をかい、スペインに移り、彼の世界周航計画について、スペイン王カルロス1世(のちのカール5世(神聖ローマ皇帝))の援助をうけることになった。1519年5隻の船、280人の乗組員でスペインのサン・ルカル港を出港、ラプラタ河口から南アメリカの東岸を南下し、ついに3隻の船でマゼラン海峡を越え、広い海にでた。彼が太平洋(平穏な海)と命名したこの海の苦しい単調な航海を続け、1521年戦隊はフィリピンに到達した。マゼランはここで現地の紛争に巻き込まれ、セブ島東岸の小島マクタン島で現地人に殺された。出発から3年後の1522年9月、残った1隻の船でスペインに帰着したのはデル・カーノ以下18人であったという。

ヨーロッパとアジアを結ぶ航路はアフリカを回る南東の航路に加え、マゼラン海峡を回る南西航路が開かれ、地球が丸いことは実証された。トルデシリャス条約による植民地分界線は東インドにも適用されたので、この地域でスペイン・ポルトガル両国の抗争が続いた。結局、1529年サラゴサ条約で、スペインのフィリピンとポルトガルのモルッカ諸島支配を相互に承認することになった。

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大航海時代がもたらしたもの

大航海時代をつうじてのヨーロッパ勢力の拡大は、世界史にきわめて大きな影響を与えている。ヨーロッパ人はヨーロッパ・アジア・アフリカ・オセアニアを含む地球規模の貿易・植民活動を展開するようになった。

世界の一体化は彼らの主導のもとに、以後展開されることになる。まずポルトガルのリスボンが、ついでスペインのアメリカ大陸支配、アジア貿易独占と結びついてアントウェルペン(ベルギーのアントワープ)が、そして、オランダの海上活動と結びついてアムステルダムが世界貿易の中心となった。

アメリカ大陸の安価な銀の大量の流入は全ヨーロッパ的な物価上昇をもたらし、ヨーロッパの経済秩序に大きな変化を与えた。いわゆる価格革命と呼ばれるものである。南ドイツの銀鉱山は衰退した。北イタリア都市を中心とする地中海貿易、北ドイツ都市を中心とするバルト海貿易は、スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリス・フランスなどの大西洋を中心とする貿易活動に対して相対的に地位を低下させた。
ヨーロッパの遠隔地貿易は、アメリカ大陸との貿易、新航路をつうじての香辛料などアジアとの貿易により、商品の種類、取引額などを拡大させ、貿易活動の中心は大西洋沿岸諸国に移ったのである。大航海時代に生じたこうした世界的規模の商業や貿易システムの大変革は商業革命と呼ばれる。アメリカ大陸へのヨーロッパ人の移住、ヨーロッパ文化の移植が進むにつれて、大西洋はヨーロッパ世界の内海となった。

王室の貿易独占政策によりポルトガルが、ついでスペインが富強となった。しかし海上覇権を維持し、他国との競争を排除してアジア貿易・新大陸貿易を独占するためには国力を必要とした。ポルトガルはその人的資源ならびに財力の限界をこえて拡大した。16世紀中にポルトガルの人口は200万から100万程度にまで激減したとみられている。リスボンをくりかえし襲った疫病、若い世代の多くが兵士や船乗り、あるいは役人として海外に渡った結果である。17世紀にはポルトガルの衰退は明らかとなる。スペインは大国であった。しかし16世紀後半、イギリスやスペインの属領であったオランダの挑戦をうけることになる。スペインが獲得した富も国内の産業を育成せず、王室の富の独占はかえって国民的規模の産業の発展を阻むこととなった。

アメリカ大陸という「新大陸」発見は生活文化のうえでも、旧世界にさまざまな影響を与えた。そのひとつはアメリカ大陸の栽培食物が世界に普及したことである。ジャガイモ・トマト・ココア・トウモロコシ・タバコ・落花生・トウガラシなどわれわれが日常生活にとりこんでいる多くのものがアメリカ大陸からもたらされた。これらがわれわれの生活、世界の経済に与えた影響ははかりしれない。

新航路の発見はヨーロッパ人の活動の空間を広げただけでなく、各地からもたらされた情報は、精神の空間をも拡大したのである。特にアメリカ大陸の自然・人間・文明は「旧大陸」との相異と類似の両面において、人間と世界の多様性の認識を深めた。多くの人々はまだ因習と偏見にとらわれていたとはいえ、『ユートピア』を著したトマス・モア、『随想録』をつづったミシェル・ド・モンテーニュなどすぐれた精神の持ち主は、新世界の「発見」から多くの刺激をうけ、新しい視角から旧世界の文明を考察しようとしたのである。近代の精神はここにもいくつかの萌芽を持っている。

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参考

詳説世界史研究

歴代君主

  • カルロス1世(1516年 – 1556年) カール5世(神聖ローマ皇帝)(1519年 – 1556年)
  • フェリペ2世(スペイン王)(1556年 – 1598年) ポルトガル王(1580年 – 1598年)
  • フェリペ3世(スペイン王)(1598年 – 1621年) ポルトガル王
  • フェリペ4世(スペイン王)(1621年 – 1665年) ポルトガル王(1621年 – 1640年)
  • カルロス2世(スペイン王)(1665年 – 1700年)

参考 Wikipedia