グナエウス・ポンペイウス
グナエウス・ポンペイウス 胸像 (2007-©JW1805)

グナエウス・ポンペイウス

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グナエウス・ポンペイウス (紀元前106年9月29日〜紀元前48年9月29日)

共和政ローマ期の軍人、政治家。ルキウス・コルネリウス・スッラからマグヌス(偉大な)と称され、ガイウス・ユリウス・カエサル及びマルクス・リキニウス・クラッススと第一回三頭政治を行ったが、ローマ内戦でカエサルに敗北、最終的に暗殺された。

グナエウス・ポンペイウス

共和政ローマ

ローマの領土拡大地図
ローマの領土拡大地図 ©世界の歴史まっぷ

三頭政治

ポンペイウスはアジアでの戦役(第三次ミトリダテス戦争・ミトリダテス6世征討及びオリエント征服)へ従軍した兵士に対して土地(耕作地)を与えること等を約束しており、これを叶えるべく奮闘したものの、マルクス・ポルキウス・カト(小カト)やルクッルスら元老院派(オプティマテス)はポンペイウスの人気に依然として警戒心を抱いていたこともあって不発に終わった。
ポンペイウスはカトの妹を自身の妻へ迎えたい旨を申し入れたが拒絶されたこともあって、ローマ市民からの人気も下がり、ポンペイウスは元老院に対して不満を抱えることとなった。

紀元前60年、ポンペイウスは長年の宿敵クラッスス及びプロプラトエル(前法務官)としてヒスパニア・ウルステリオルの属州総督であったガイウス・ユリウス・カエサルと非公式に手を結ぶことを決定し、紀元前59年にカエサルをコンスルとすること及びポンペイウスが率いていた兵士へ土地を供与すること等を内約した(一般に「三頭政治」(Triumviratus)と呼ばれる)。

紀元前59年、ポンペイウスはユリウス・カエサルの娘ユリアを新しい妻へ迎え(前妻ムキアはカエサルとの不倫関係が明るみに出たため、ポンペイウスは離縁していた)、20歳以上も年齢差があったものの、ポンペイウスとユリアの夫婦仲は極めて良好であった。この年にカエサルはコンスルに就任し、ポンペイウスが要求していたポンペイウスの元兵士へ土地を供与すること及び自らが征服したシリアやユダヤなどの東方属州への再編成案などが可決され、農地法改正でもポンペイウスは重要なポストを得たことで大いに面目を保つことができた。ポンペイウスは紀元前58年からヒスパニア・ウルステリオル属州総督へ就任することも決定したが、現地へ赴任することなくローマに滞在することが認められた。なお、カエサルが紀元前58年からガリア・キサルピナやイリュリクムなどの属州総督となることも決定された。( ROME[ローマ] 登場人物とあらすじ

紀元前58年、カエサルがガリア総督としてローマを離れた後、ローマ政界は三頭政治側の護民官であったプブリウス・クロディウス・プルケルが幅を利かせることとなった。クロディウスはキケロに激しい敵愾心を抱いており、クロディウスがキケロをローマより追放するための法案を提出した際にキケロはポンペイウスへ助けを求めたものの、ポンペイウスは取り合わずにキケロはローマを落ち延びざるを得なかった。

紀元前57年、クロディウスへの支持が急落したことや前年まで小アジアに赴任していたカトが帰還したこと、キケロの追放が解除されたこと(ポンペイウス自身もキケロのローマ帰還に助力したが)もあって三頭政治側は元老院派から反撃を受けた。ポンペイウスは政治への興味を失い、自らが携わったローマ最初の恒設劇場であった「ポンペイウス劇場(ローマ初の恒久的(木造でない)劇場であり、何世紀にもわたって世界最大の劇場と言われた。ユリウス・カエサルが暗殺された場所として有名である。現存しない。)」の工事進捗といった文化活動に興じると共に、ユリアとの新婚生活に溺れる有様であったという。

ルッカ会談

カエサルはガリア戦争で目覚しい実績を積み重ね、ローマ市民からの人気が高まっていた。一方で元老院派からのカエサルへの攻撃は厳しく、対応に迫られたカエサルが主導する形で紀元前56年に3者はイタリア北部のルッカで会談を持った。紀元前55年にポンペイウスはクラッススと共にコンスルに当選して2度目の就任が決まった。

この年はクロディウスや元老院派の暗躍を抑え込むと共に、カエサルのガリア総督としての任期を5年延長すること、クラッススがシリア属州総督となること、ポンペイウスがヒスパニア属州総督となること等が決議された。
また、エジプト国王(ファラオ)で王位を追われていたプトレマイオス12世からかねてより嘆願のあった王位への復位を叶えるため、ポンペイウスは配下の武将でシリア属州を統治していたガビニウスを通じて軍をエジプトへ派遣し、プトレマイオス12世に代わってファラオに就いていたベレニケ4世を追放すると共にプトレマイオス12世をファラオとした。エジプトは独立は保ったものの、事実上はポンペイウスの属国的存在となった。

三頭政治崩壊

ルッカ会談で三頭政治は維持されたものの、三者の思惑から徐々に亀裂が生じつつあった。その中で、ポンペイウスはユリアを紀元前54年に失ったことに続き、紀元前53年にパルティア遠征に向かったクラッススがカルラエの戦いで敗死したことで三頭政治は事実上崩壊し、ポンペイウスは実力を蓄えつつあったカエサルと正面からの対峙を余儀なくされることとなった。

カエサルからカエサルの大姪であったオクタウィアとの縁談を申し込まれたものの、ポンペイウスはこれを拒否し、紀元前52年に元老院派の重鎮クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカの娘で、カルラエの戦いで戦死したクラッススの息子プブリウスの未亡人であったコルネリアを嫁に迎えることを決め、ポンペイウスは元老院派へ軸足を移していった。

紀元前52年、クロディウスの暗殺によってローマは大混乱に陥った。マルクス・カルプルニウス・ビブルスやカトら元老院議員はこれを治めるため、ポンペイウスへ異例となる単独でコンスルへ就くよう要請してポンペイウスは単独でのコンスルとなったが、注目されたクロディウスの暗殺犯ティトゥス・アンニウス・ミロの裁判に手間取ったことで混乱は抑まらず、メテッルス・スキピオを同僚のコンスルに迎え入れた。アレシアの戦いの勝利でカエサルのガリア制覇が目前となった時期、カエサルはガリア総督の任期切れ後にコンスルへ立候補することを目論んだが、ポンペイウスら元老院派はイタリア国外でコンスルへ立候補することを禁止したため、カエサルは大きな打撃となった。

紀元前51年、元老院派はカエサルがガリア総督として有するローマ軍団を解散しない限り、コンスルへ立候補することを許可できないとする内容の「元老院最終勧告」を決議した。カエサルにとっては、自派の軍団無しでローマに向かうことは自殺行為に等しく、到底許容できるものではなかった。自派の護民官や元老院議員へ解除するよう根回ししたものの、不首尾に終わったことから、カエサルとポンペイウスら元老院派との戦争は必至の情勢となった。

ローマ内戦

ローマ内戦 グナエウス・ポンペイウス
ガリア戦争終結後の共和政ローマ 赤: 元老院派・ポンペイウス勢力圏, 青: カエサル支配の属州

ローマ内戦

紀元前49年1月10日、カエサルがルビコン川を渡り、ローマ内戦は始まった。ルビコンを渡った後にイタリア半島を南下するカエサル派に対して、ポンペイウスはローマから逃れた。ポンペイウスはブルンディシウムまで撤退した後、かつて自らが征服した東方属州へ渡って軍を再編してカエサルと争う方針を決め、多くの元老院議員もポンペイウスへ従って、ギリシアへと向かった。

ポンペイウスはデュッラキウムの戦いでカエサル軍に勝利したが、カエサル軍に決定的な打撃を与えるには至らなかった。紀元前48年8月、ポンペイウス率いる元老院派はファルサルスの戦いでカエサル軍と再度対戦し、兵力で上回っていたものの、ポンペイウス自身人生初となる敗北を喫した。

ポンペイウスはエーゲ海沿いのミュティレナエ島(Mytilene)、そしてキプロスへと向かった。当初はシリアで再起を図る予定であったが、既に反ポンペイウスを鮮明にしたことが伝わっており、エジプトへ逃れることを決意した。

最後

エジプトは当初ポンペイウスへ協力的な姿勢を示していたものの、内部での話し合いの中でポンペイウスを殺害することが決定された。紀元前48年9月29日、ポンペイウスの58回目の誕生日でもあったこの日、大型のガレー船でエジプトへ到着したポンペイウスは、かつてからの知り合いであったアキッラス及びルキウス・セプティミウスによる出迎えを受けた。

ガレー船から離れたと同時に小舟の中に潜んでいたエジプト軍の刺客によってポンペイウスは殺害され、レントゥルスも捕らえられて、後に殺害された。ガレー船に乗り込んでいたメテッルス・スキピオやコルネリアらはエジプトを離れた。

同年10月、カエサルはエジプトへ到着したが、その地でポンペイウスの死を知ることとなった。その後、コルネリアはポンペイウスの遺灰と指輪をカエサルより受け取ってイタリアへ埋葬し、余生を送ったとされる。ポンペイウスの2人の息子グナエウス・ポンペイウス・ミノルとセクストゥス・ポンペイウスはティトゥス・ラビエヌスやメテッルス・スキピオら生き残った元老院派と合流、カエサルへの抵抗を続けることになる。

なお、紀元前44年3月15日に「ポンペイウス劇場」内でカエサルは共和主義者に襲撃され、劇場内に設置されたポンペイウス像の下にカエサルは崩れ落ちて死を迎えたが、自らの復讐にポンペイウスが立ち会ったかのようであったという。

年表

  • 紀元前106年 – ピケヌム(現:アスコリ・ピチェーノ県)に大きな所領を持つ裕福な家系で生まれる
  • 紀元前88年 – ローマで指揮を執っていた父から呼び出され、同盟市戦争で18才で初陣を飾る
  • 紀元前87年 -民衆派のガイウス・マリウスが閥族派のルキウス・コルネリウス・スッラがローマを離れていた間に侵攻。閥族派の父ストラボ死去
  • 紀元前83年 -マリウス亡きあとのローマ征圧のためのスッラのローマ侵攻に合わせて、自費で軍を率いてスッラ派へ参加
  • 紀元前82年 – マリウス派(ポプラレス)が抵抗していたシキリア・北アフリカを制圧(~紀元前81年)
  • 紀元前81年 – 1度目の凱旋式
  • 紀元前76年 – セルトリウスの反乱を鎮圧するべくヒスパニアへ遠征(~紀元前71年)
  • 紀元前71年 – 2度目の凱旋式
  • 紀元前70年 – コンスルに就任(同僚はマルクス・リキニウス・クラッスス)
  • 紀元前67年 – 海賊征討戦(3ヶ月弱で完了)
  • 紀元前66年 – 小アジア・黒海遠征。ミトリダテス6世を破る(~紀元前63年)
  • 紀元前64年 – シリア・ユダヤ・フェニキア等をローマの勢力圏に加える
  • 紀元前61年 – 3度目の凱旋式
  • 紀元前59年 – 第一回三頭政治(クラッスス及びガイウス・ユリウス・カエサル)。ポンペイウス、カエサルの娘・ユリアと結婚
  • 紀元前58年 – ヒスパニア属州総督に就任(~紀元前55年)、この間にポンペイウス劇場が完成
  • 紀元前56年 – ルッカ会談
  • 紀元前55年 – コンスルに就任(同僚はクラッスス)
  • 紀元前54年 – ユリア死去
  • 紀元前53年 – クラッスス戦死、三頭政治が事実上崩壊
  • 紀元前52年 – コンスルに就任(同僚はメテッルス・スキピオ)
  • 紀元前51年 – カエサル・ガリア総督任期終了、コンスルへの立候補を表明
  • 紀元前49年 – カエサル派との内戦が開始
  • 紀元前48年 – ファルサルスの戦いで敗北、アレキサンドリアへ逃れるも同地で殺害される

ユリウス・クラウディウス朝家系図

グナエウス・ポンペイウスはユリウス・カエサルの娘・ユリアと結婚したがユリアは産褥で死亡した。

ユリウス・クラウディウス朝家系図

グナエウス・ポンペイウス

グナエウス・ポンペイウスが登場する作品

ザ・ローマ帝国の興亡 第2話 シーザー

グナエウス・ポンペイウス
グナエウス・ポンペイウス

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DVD

ROMA [ローマ]

ROME[ローマ] クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ
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