アロー戦争
英国の国旗をおろし、アロー号船員を拿捕する清国兵(William Heysbam Overend画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
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アロー戦争 Arrow (A.D.1856〜A.D.1860)

アヘン戦争後も中国への輸出はのびず、条約改定の機会をうかがっていた列強は、アロー号・フランス人宣教師殺害事件を口実に英仏連合が清に開戦。敗れた清は北京条約で九竜をイギリスに割譲など半植民地化が進んだ。

アロー戦争

  • 宣教師殺害事件を口実に、フランスがイギリスと連合して清朝に対しておこなった戦争。ナポレオン3世が展開した積極的対外政策のひとつであった。
  • アロー号事件を口実に、イギリスがフランスと連合しておこした戦争。南京条約後も中国への工業製品の輸出はのびず、条約改定の機会をうかがっていたイギリスは、アロー号事件を口実に遠征軍を派遣した。フランスも宣教師殺害事件を口実に参戦し、連合軍は1858年に広州・天津を占領し、天津条約を結んだ。しかし、批准ひじゅん交換を巡って清軍の攻撃を受け、英仏両軍は戦争を再開して北京を占領、円明園を破壊して清朝を屈服させ、北京条約を結んだ。

参考 世界史用語集

アロー戦争
フランス人兵士が中国人にアヘンを飲ませている。フランス/中国:アロー戦争(オノレ・ドーミエ作/画像出典:Brandeis University Libraries

欧米列強の清に対する飽くなき欲望 1856〜60年清とイギリス・フランス連合軍の間に起こったアロー戦争(第2次アヘン戦争)についての風刺画。南京条約後、イギリスは更なる権益を望みます。イギリス商船アロー号の中国人水夫が清国に逮捕される「アロー号事件」が起こると、イギリスはフランスを誘って、再び清国に戦争をしかけました。清は敗れ、北京条約によって、イギリスに九竜を割譲するなど欧米諸国は権益をさらに拡大させました。 参考:おもしろい世界の風刺画 (OAK MOOK)

欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

フランス第二帝政と第三共和政
ナポレオン3世の対外進出地図
ナポレオン3世の対外進出地図 ©世界の歴史まっぷ

外交面ではきわめて活発な対外侵略をおこなった。まず1853年クリミア戦争に参加し、これに勝利して皇帝の威信を高めた。さらに56年から宣教師殺害事件をきっかけにイギリスと共同して清朝を攻撃したアロー戦争をおこし、越南国を58年攻撃して(インドシナ出兵)、62年サイゴン条約を結び、コーチシナ東部を確保してさらに北上した。59年カヴールとの密約にもとづいてイタリア統一戦争に介入し、途中でオーストリアと単独で講和するなど自国の利害を優先する外交方針をとった。61年からはメキシコ遠征をおこなったが、現地の反発や南北戦争を集結させたアメリカの抗議によって、干渉を中止せざるをえなくなり、皇帝の権威は失墜した。このため、スペイン王位継承問題でプロイセンと対決したときは、強硬姿勢をとらざるをえなかったためプロイセン=フランス戦争に突入し、スダン要塞で捕虜となって第二帝政は崩壊した。

アメリカ合衆国の発展

独占体の形成と移民問題

これとともに1860年の北京条約(アロー戦争講和条約)で、中国人の海外渡航の自由が承認されたこともあって、中国系移民(苦力クーリーと呼ばれる年季労働者)が増加し、のちに日系移民なども増えた。中国系の年季労働者はアイルランド系移民とともに大陸横断鉄道(1869年完成)の建設にも貢献したが、白人低層労働者と競合したため、排斥運動が展開され、1882年の移民法改正によって中国系移民は禁止された。
20世紀になると、WASP以外、あるいは技術をもたない移民を制限すべきとの声から、1917年には識字テスト法が成立したほか、カリフォルニアなどを中心に排日移民運動が激化し、1924年には排日移民法が定められた。

独占体の形成と移民問題
排華移民法に関して19世紀に描かれたアメリカ合衆国の人種差別風刺画(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

アジア諸地域の動揺

東アジアでは、18世紀後半以降衰退に向かいつつあった清朝が、イギリスを先頭とするヨーロッパ列強の進出の波に直面し、アヘン戦争やアロー戦争に敗北して、その中華思想的世界観に巨大な衝撃をうけるとともに、不平等条約を強制されて、しだいに半植民地の道をたどっていった。

東アジアの激動

ロシアの東方進出
ロシアの東方進出地図
ロシアの東方進出地図 ©世界の歴史まっぷ

ロシア皇帝ニコライ1世は、アヘン戦争でのイギリスの勝利に刺激され、1847年、ムラヴィヨフ Muraviyov (1809〜81)を初代東シベリア総督に任命し、積極的な東方進出政策をおこなわせた。ムラヴィヨフは極東への植民を推進し、清が太平天国やアロー戦争に苦しんでいるのに乗じて、1858年アイグン条約(璦琿 Aigun )を結び、ネルチンスク条約を修正して、アルグン川と黒竜江を新たな国境線と定め、同江以北の地を獲得したほか、ウスリー江 Ussuri 以東の沿海州を両国の共同管理とした。さらに1860年には、アロー戦争に際し、ロシア公使イグナチェフ Ignatyev (1832〜1908)が英・仏と清朝を仲介し、講和条約(北京条約)を成立させた見返りとして、露清北京条約が結ばれ、ロシアはウスリー江以東の沿海州を獲得した。ロシアは同地にウラジヴォストーク港 Vladivostok を建設し、極東・太平洋方面への進出の拠点とした。

アロー戦争
19世紀半ばの東アジア地図
19世紀半ばの東アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

アヘン戦争後も、欧米列強の中国への輸出は、清朝の排外的態度や、閉鎖的で自給自足な小経済圏が地方ごとに分立するという中国の社会経済の特質に阻まれて、期待したほどにはのびなかった。このため、列強はよりいっそうの貿易拡大を求めて条約改定の機をうかがっていたが、たまたま1856年10月、広州でイギリス船籍を主張する小帆船アロー号 Arrow が海賊容疑によって清朝官憲に検問され、中国人乗組員10数名が逮捕されるという事件がおきた(アロー号事件)。イギリスは、事件の際にイギリス国旗が引き降ろされて侮辱されたとして出兵を強行した。フランスのナポレオン3世も、同年広西省でおきたフランス人宣教師殺害事件を口実にしてイギリスに同調、両国が連合して清に開戦し、アロー戦争(1856〜60, 第2次アヘン戦争ともいう)が始まった。英仏連合軍は、広州を占領したのち、北上して天津に迫ったため、1858年、清朝はやむなく屈服して天津条約を結んだ。条約は、以下の内容などとし、英仏両国のほか条約改定の趣旨に同調したロシア・アメリカも加えた4カ国との間で結ばれた。

  1. 各国の公使の北京駐在
  2. キリスト教の信仰および布教の自由
  3. 外国人の国内地旅行の自由
  4. 開港場の増加(新たに10ヶ所設定)
  5. 賠償金の支払い

しかし、皇帝咸豊帝かんぽうてい(位1850〜61)をはじめ、清朝朝廷には排外的空気が強く、条約の細部の調整は遅々として進まなかった。このとき天津条約の批准書交換のため、北京に乗りこもうとした英仏両国公使の船が、清軍から砲撃されるとういう事件がおき、戦争が再開された。1860年、英仏連合軍は北京を占領し、円明園の破壊などの略奪をおこなった。このため同年、清朝はロシア公使の仲介により、英仏両国と北京条約を結んで講和した。この条約では天津条約の内容が確認されたほか、以下の条項などが追加された。

アロー戦争
フランス人兵士が中国人にアヘンを飲ませている。フランス/中国:アロー戦争(オノレ・ドーミエ作/画像出典:Brandeis University Libraries

欧米列強の清に対する飽くなき欲望 1856〜60年清とイギリス・フランス連合軍の間に起こったアロー戦争(第2次アヘン戦争)についての風刺画。南京条約後、イギリスは更なる権益を望みます。イギリス商船アロー号の中国人水夫が清国に逮捕される「アロー号事件」が起こると、イギリスはフランスを誘って、再び清国に戦争をしかけました。清は敗れ、北京条約によって、イギリスに九竜を割譲するなど欧米諸国は権益をさらに拡大させました。 参考:おもしろい世界の風刺画 (OAK MOOK)

  1. 天津など11港の開港
  2. 香港対岸の九竜半島の一部をイギリスに割譲
  3. 賠償金の増額

このとき、ロシアの仲介の労に対して、露清北京条約が結ばれたことは前述のとおりである。また、外交公使の北京駐在にともない、清朝は総理衙門(正式には総理各国事務衙門がもん)を設置して外交交渉に当たらせたが、これは清朝最初の外務官庁であった。

アロー戦争後、アヘン貿易は完全に合法化され、中国市場は欧米列強にほぼ全面的に開放された。また、外国商品には厘金りきん (国内関税)が免除されたため、外国製品は中国製品に対して著しい優位にたち、大量に外国製品が流入して、木綿工業をはじめとする中国の伝統産業は大打撃をうけた。また、租界も上海のほか、広州・天津・厦門アモイなどにも設置され、中国は、列強からの政治・経済上の圧力をいよいよ強くうけるようになり、半植民地化がいっそう進んでいった。

潮州ちょうしゅう淡水たんすい瓊州けいしゅう台南たいなんなど南方諸港に加え、牛荘ニウチャン登州とうしゅうなど北京に近い渤海湾岸の港や、漢口かんこう九江きゅうこう鎮江ちんこう・南京など長江(揚子江)沿いの内陸港(河港)を開港させ、経済進出をより広範囲に推進しようとするものであった。

清朝は1853年以降、太平天国の乱鎮定の軍事費捻出のため、国内各地に税関を設け、通過する商品に流通税を課した。これを厘金りきんといい、中華民国時代まで存続した。

明治維新

1853年、ペリー Perry (1794〜1858)の率いるアメリカ艦隊(黒船)が浦賀に来航し、日本の開港を求めた。幕府では開国か攘夷かをめぐって激しい対立があった。しかし老中阿部正弘(1819〜57)らは、開国は避けられぬ情勢にあると判断し、翌1854年、日米和親条約(神奈川条約)を締結して、下田・箱館(函館)の2港を開港した 。さらに初代アメリカ領事として着任したハリス Harris (1804〜78)が将軍に謁見して開国を求めると、アロー戦争の経過に強い衝撃をうけていた幕府は、大老井伊直弼(1815〜60)の主導下に、1858年、日米修好通商条約を締結した。ついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間にも同様の条約(安政五カ国条約)を結んで開港を断行した。これらの条約は、開港場の増加のほか、領事裁判権(治外法権)や関税自主権の喪失などを内容とする不平等条約であった。この条約は中国の南京条約・北京条約のような敗戦による条約ではなかったため、賠償金支払いや領土の割譲はなく、アヘンも禁輸とされるなど、中国に比べれば不平等性は弱かった。

参考

詳説世界史研究

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