壬申の乱 律令国家の形成 672年壬申の乱要図 律令国家の形成
672年壬申の乱要図 ©世界の歴史まっぷ

672年壬申の乱要図

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672年壬申の乱要図

地名:倉歴, 箸墓, 大津宮, 山崎, 難波, 乃楽, 倭古京, 飛鳥, 吉野宮, 伊賀, 積殖山口, 鈴鹿, 粟津, 瀬田, 安河, 三重, 桑名, 不破, 野上, 三尾城, 息長横河, 鳥籠山, 若狭, 美濃, 尾張, 近江, 山背, 伊勢, 河内, 摂津, 大倭

672年壬申の乱要図
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壬申の乱

天智天皇が671(天智天皇10)年に死去すると、翌672年に、壬申の乱がおこった。
これは、天智天皇の同母弟で大王位継承者とされていた大海人皇子おおあまのみこと、天智天皇の長子(母は伊賀地方豪族出身)で、671年に政権に参画した大友皇子おおとものみことの間におこった大王位継承争いを発端としている。

671(天智天皇10)年正月に太政大臣だいじょうだいじんに任じられたとされる大友皇子おおとものみこは、10月に大海人皇子おおあまのみこが出家し、12月に天智天皇が死去した後は、近江朝廷の中心に立った。
江戸時代の学者は皇子の即位を主張し、1870(明治3)年、皇子は弘文天皇こうぶんてんのう追謚ついしされた。
しかし、実質的に朝廷の主であった皇子の即位そのものにこだわる必要はない。また、地方豪族を母にもつ大友皇子は、もともと即位できない立場にあった。
大海人皇子が大友皇子を倒した原因については、大海人皇子の後継者問題や鵜野皇女(のちの持統天皇)の意向もからんで、複雑な要因が存在したのである。

吉野に退いていた大海人皇子は、東国に脱出し、伊賀・伊勢を経て美濃を本拠とし、東国で徴発された数万の兵と、大伴氏を中心とする大和の諸豪族の兵を配下に収めた。大海人軍は飛鳥京を平定するとともに、大津宮を目指して近江路を進軍した。
一方、大友皇子は、西国の兵を徴発しようとしたが、白参考の戦いの動員で疲弊し、近江朝廷への不満を強めていた西国の地方豪族からの動員は思うようには進まず、ついに近江大津宮は陥落し、大友皇子は自殺して乱は決着した。

参考

詳説日本史研究

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  • Update Date2018-04-14

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