孔子 諸子百家
孔子聖蹟圖(仇英画)©Public Domain

孔子


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孔子 ( B.C.551〜B.C.479)

孔子こうしは、儒家・儒教の祖。名はきゅう、字は仲尼ちゅうじといい、春秋時代の小国曲阜きょくふ(山東省)に生まれ、15歳で学問に志し、30歳ころ自身の思想を確立した。孔子の死後、弟子たちが編集した孔子と弟子の言行録である『論語』は、のちに儒教の経典となり、中国の正統の学問として大きな影響を与えた。

孔子

道徳による政治を説いた儒教の祖

孔子の生きたのは、春秋時代の末、周王朝(東周)の支配体制が崩れ、大小無数の諸侯が並び立ち、互いに覇を競い合った時期にあたっている。孔子は諸侯に遊説してまわること14年に及んだが、彼の掲げる理念、すなわち法ではなく道徳により国を収めるのが政治の根本だとする思想を受け入れ、彼に政治を任せてくれる君主はいなかった。やむなく孔子は故郷の魯に舞い戻り、それからは弟子の教育と研究に専念した。

『論語』にも「己の欲せざるところは人に施すことなかれ(自分が望まないようなことは人にもしむけるな)」とあるように、孔子がとくに強調したのは仁(思いやりの愛)と忠(対社会的な真心)だった。それを形にしたが「礼」である。

礼とは本来、祭祀の儀礼を意味する言葉だったが、孔子はこれに道徳性を付加した。礼に新しい精神を注入することで、国家の制度から日常の細かい規範まで、幅広い慣習を含むものへと再編したのである。

孔子の語録:孔子の死後、弟子たちは孔子の言葉を主として、孔子と弟子その他の人々の問答などを集めた語録を編纂した。これが『論語』である。のちに儒教の代表的な経典となる。
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個人の道徳心が天下の太平をもたらす

紀元前11世紀に建国した周(王朝)は、北方異民族の侵入に苦しめられ、東の洛邑らくゆう(現・洛陽)に遷都する。もはや周に諸侯を封じる力はなく、さまざまな小王朝がしのぎを削り合う「春秋戦国時代」に突入した。このうち春秋時代は紀元前770年から紀元前403年まで。

孔子は春秋時代の末期、魯という国に生まれた。姓は孔、名は丘きゅう、字は仲尼ちゅうじ。子は男性への尊称で、先生の意味である。幼くして両親を亡くしたが、よく勉学に務めた。

孔子の思想は「修己しゅうこ治人ちじん」。政治の基本は、法ではなく道徳であり、自己の修養に努めた後にこそ、人を治めることができるとした。そして道徳を一貫するものは「」(深い人間愛)であるという。個人個人が仁を守れば(修身しゅうしん)、家は円満になり(斉家せいか)、即ち国家も治まり(治国ちこく)、天下は安泰になる(平天下へいてんか)と説いた。

孔子は50歳を過ぎて魯の役人に就くが、すぐに頭角を現し宰相になる。しかし貴族の妨害で失脚。56歳で魯を去り、各地を遊説した。14年目に帰国してからは、弟子の教育にあたった。孔子の教えは儒教と呼ばれ、死後弟子たちによって「論語」にまとめられた。

孔子は、「仁」の根本は、親への「孝」、兄への「悌」であるとし、ほかに「義」(するべきことをすること)、「礼」(礼節を重んじること)、「智」(よく学ぶこと)、「信」(信頼に応えること)の大切さも説いている。

孔子 の名言

未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん
過ちて改めざる、これ過ちという

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アジア・アメリカの古代文明

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古代思想界の開花

諸子百家

諸子孔子・老子荘子・墨子・孟子・荀子
百家陰陽家・儒家・墨家法家・名家・道家・縦横家・雑家・農家・小説家・兵家
儒家

儒家じゅか孔子(紀元前551頃〜紀元前479)の始めた学派で、家族倫理の実践によって人格を完成し、を実践することによって、ついには理想社会と天下泰平の実現が可能であるとした。

礼:日常生活から政治制度にいたるまでの社会全般の規範

孔子は名はきゅう、字は仲尼ちゅうじといい、春秋時代の小国曲阜きょくふ(山東省)に生まれ、15歳で学問に志し、30歳ころ自身の思想を確立した。彼は、社会の基礎を礼におき、周(王朝)の礼を理想としたが、当時、礼が効力を失っていたので、それを立て直すために、人と人との間に自然に備わる道徳的な心情としてのじんを強調し、この仁の完成により天下を平らかにすることができるとした。また、理想の政治は、天命を受けた有徳ゆうとくの天子がおこなうべきで、周の政治、とくに周公の治世を模範とした。これを徳治主義とくちしゅぎという。孔子は、古来の礼を回復し、政治と倫理・道徳を関連させる説をたてた。その言行は、『論語』に記録されている。儒家は後世、中国の正統の学問として大きな影響を与えることになる。

『論語』:孔子の死後、弟子たちが編集した孔子と弟子の言行録。

孔子の孫の子思ししの門人から儒教を学んだのが孟子もうし(紀元前372頃〜紀元前289頃)で、紀元前4世紀ころ各地を遊説した。思想の中心に「仁・義」をおいたほか、天命が有徳者に移るとする改革論を説き、人間の本性は善であるとする性善説を主張した。儒教は魯からしだいに各地へ広がっていったが、最初に大きな影響を受けたのはである。儒家は、ここで多くの人材を養成して、魏に全盛時代をもたらした。
斉では全国から学者を招き、都臨淄りんしに邸宅をつくり、ここに彼らを住まわせ保護した。

斉の国では、威王(斉)いおう宣王(斉)せんおうが、全国から学者を招き、臨淄の稷門しょくもん付近に邸宅を建て、ここに移住させ、多額の生活費を給して、論争や著述に専念させた。彼らは「稷下の学士しょうかのがくし」と呼ばれた。

ここで孟子もうし荀子じゅんしが活躍し、儒教を盛んにした。荀子(紀元前298頃〜紀元前235頃)は趙に生まれ、性悪説を唱え、本性が悪である人間から、悪をのぞくために礼による規律維持が必要であるとして、孟子とはことなる方向で孔子の思想を継承・発展させた。

詳説世界史研究

孔子が登場する作品

恕の人 -孔子伝-

恕の人-孔子伝-
恕の人-孔子伝-

“恕”(じょ) とは相手の気持ちを考えること、すなわち思いやり。人を和ませ、あたたかい心があふれ出す―
春秋時代の魯国。この地で生まれた孔子は母親に育てられるが、その大事な母を病気で失う。母を父と一緒に弔うため、ほとんど記憶のない父の墓を探し続け、ようやく母を父の元に返す。その後当時の魯国を牛耳っていた季家の馬飼いの仕事をしながら、孔子は「礼」「楽」「射」「御」「書」「数」を身につけるのであった。その豊かな知識と人望から、孔子の下には弟子が徐々に集まり、いつしか教育の場を設けるのであった。しかし孔子自身は政治の場で自身の智慧を発揮し国を安定させようとするが、さまざまな障害で要所に就くことはできず、遂には弟子たちと共に諸国を巡り歩くことになる。その間弟子たちに伝えた言葉は、愛弟子の顔回によって記録され、そしてその記録が「論語」となり、2500年の時を隔てた現代でも語り継がれるのであった。

アメリカに留学中の梅燕は、孔子に関する論文を完成させるために、8年ぶりに中国に一時帰国し、空港に出迎えに来た端木と共に、梅燕はそれまでほとんど知らなかった孔子の波乱に満ちた生涯に触れてゆく。

恕の人 -孔子伝- 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ

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土器の生活

土器の出現で食物の煮炊きが可能に。土器は徐々に発展を遂げた。縄文の最後を飾ったのが有名な亀ヶ岡式土器。精巧な作りと、黒漆の地に赤漆で描いた美麗な文様を特色とする。

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