林羅山
儒学者林羅山像(作者不明/日本肖像画図録 (京都大学文学部博物館図録))©Public Domain

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林羅山 はやしらざん( A.D.1583〜A.D.1657)

儒学者。鎖国状況のもとで、君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる学問である朱子学は幕府や藩にも受け入れられ、支配者である武士の学問・思想、常識の源泉となった。藤原惺窩の門人・林羅山は将軍家康の側近となり、その子孫(林家)は代々儒者として幕府につかえて学問と教育を担った。

林羅山

家康から家綱まで歴任した儒官

儒学者。号の羅山は師の藤原惺窩が命名。幼時より学才を示し22歳で惺窩に入門。京都市中で『論語』の公開講義を行うなど一般へ知識を広めようとした。博識で努力家の羅山はのちに家康から家綱まで四代の将軍に歴仕、儒学者の社会的地位の向上や儒学の普及に貢献した。

幕藩体制の確立

幕藩体制の成立

幕府と藩の機構

幕府の職制は、3代将軍家光のころまでに整備された。それ以前の家康・秀忠時代は、三河以来の譜代門閥(大久保忠隣おおくぼただちか酒井忠世さかいただよ·土井利勝どいとしかつら)が、年寄という立場にあって将軍や大御所の側近を固め、重臣となった。このほか僧の南光坊天海(1536?〜1643)・金地院崇伝、儒者の林羅山はやしらざん(1583〜1657)、商人の茶屋四郎次郎(1542〜96)・後藤庄三郎らが家康の側近として諮問にこたえた。

寛永期の文化

鎖国状況のもとで、主に影響を与えた外国文化は、支配者である武士の学問・思想、そして常識の源泉となった儒学と中国文化であった。とくに朱子学は君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる学問であったため、幕府や藩にも受け入れられた。京都相国寺の禅僧であった藤原惺窩ふじわらせいか(1561〜1619)は、還俗して朱子学の啓蒙につとめた。その門人の林羅山(道春、1583〜1657)は家康に用いられ、その子孫(林家りんけ)は代々儒者として幕府につかえて学問と教育を担った。

参考

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