吉田兼倶
吉田神社斎場所大元宮(重要文化財)画像出典:京都もよう KYOTO MOYOU

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吉田兼倶 よしだかねとも( A.D.1435〜A.D.1511)

室町時代。代々京都の吉田神社の神職だったが、反本地垂迹説に基づき、神道を中心に儒学・仏教を統合しようとする唯一神道(吉田神道)を完成し、大元宮と称する八角形の神殿と斎場を建造するなどして、吉田神社の権威の上昇をはかった。全国の神社を支配し、江戸時代になると幕府によって公認され、神職につくものは吉田家から「神道裁許状」を受けることが義務づけられるようになった。

吉田兼倶

全国の神社を支配した手腕

唯一神道の祖。京の吉田社の神官だったが、神道こそが儒教、仏教の根本とする「唯一神道」を説き、後土御門天皇をはじめ公家・将軍家などに講義を行った。全国の神を祀った大元宮を創建する
など、その政治的手腕によって、神職・神位を授ける権利を獲得した。

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神道思想による『日本書紀』などの研究が進み、京都の吉田神社の神職であった吉田兼倶よしだかねとも(1435〜1511)は反本地垂迹説はんほんじすいじゃくに基づき、神道を中心に儒学・仏教を統合しようとする唯一神道ゆいいつしんとう(吉田神道)を完成した。

吉田家の神社支配

吉田家は代々吉田神社の神職をつとめ、多くの学者を輩出した家柄であった。15世紀に現れた吉田兼倶は、家伝の神道説を大成するとともに、大元宮だいげんぐうと称する八角形の神殿と斎場を建造するなどして、吉田神社の権威の上昇をはかった。また、神祇伯(神祇官の長官)を世襲していた白川しらかわ家に対抗するため、「神祇管領勾当かんれいこうとう長上」「神祇長上」「神道長上」などの地位を自称し、また諸国の神社・神職に対し「宗源宜旨」「神道裁許状」などと呼ばれる免許状を発給することによって、 しだいに全国の神社を支配していった。兼倶の教説には虚構や捏造も多く、当初は周囲の貫族や学者からも激しい非難を受けたが、その後吉田家による神社支配は江戸幕府によって公認され、神職につくものは吉田家から「神道裁許状」を受けることが義務づけられるようになった。

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