マッツィーニ
マッツィーニ (WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

マッツィーニ


マッツィーニ Mazzini( A.D.1805〜A.D.1872)
イタリアの共和主義者・革命家。カルボナリでの活動後、1831年に亡命地マルセイユで「青年イタリア」を組織し、革命がおこった48年に帰国した。翌年、制憲議会によって樹立されたローマ共和国に入り3名の独裁官の一員に選ばれたが、フランス軍の介入で共和国が崩壊してイギリスに亡命した。のち、60年に密かに帰国し、ガリバルディの南イタリア征服に協力した。

マッツィーニ

イタリアの共和主義者・革命家。カルボナリでの活動後、1831年に亡命地マルセイユで「青年イタリア」を組織し、革命がおこった48年に帰国した。翌年、制憲議会によって樹立されたローマ共和国に入り3名の独裁官の一員に選ばれたが、フランス軍の介入で共和国が崩壊してイギリスに亡命した。のち、60年に密かに帰国し、ガリバルディの南イタリア征服に協力した。

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欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

七月革命とその影響
正統主義 ウィーン体制 ウィーン会議 ウィーン体制下のヨーロッパ地図
ウィーン体制下のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

イタリアでは、カルボナリが蜂起したが失敗し(カルボナリの反乱)、その党員であったマッツィーニ Mazzini (1805〜72)は亡命先であるマルセイユにおいて秘密結社から大衆政党へと脱皮すべく「青年イタリア」 Giovine Italia を結成した。イギリスでは国内経済の停滞もあって地主支配への不満が高まり、32年には腐敗選挙区を廃止する第1回選挙法改正が実現している。

1848年の革命
1848年革命地図
1848年革命地図 ©世界の歴史まっぷ
イタリア

イタリアでは統一をめざすリソルジメント運動 Risorgiment が各地で高揚することになった。北イタリアではオーストリアがヴェネツィアやロンバルディア地方というイタリア人居住地区を支配していたので、これに対する抵抗運動が激化した。サルデーニャ王国のカルロ=アルベルト Carlo Alberto (位1831〜49)は国王即位時から自由主義者として知られ、国民の期待もあって1848年、北イタリアの統一をめざしてオーストリアと開戦した。しかし、ラデツキー Radetzky (1766〜1858)率いるオーストリア軍にノヴァラの戦い(49年3月)で敗北し、近隣諸国の支援もなかったため彼は国王の地位を捨てざるを得ず、統一は実現できなかった。一方、マッツィーニ率いる青年イタリアは49年ローマで蜂起し、ローマ共和国の建国を宣言したが、反動化したローマ教皇の要請によって出動したフランス軍のため、この政府は崩壊した。

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