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太陽 - The Sun
太陽 – The Sun

昭和天皇 がモデルの映画 太陽 – The Sun

映画

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昭和天皇 がモデルの映画 太陽 – The Sun
終戦直前・直後の数日間における昭和天皇の苦悩を、一人の人間としての昭和天皇のプライベートがコミカルさ、シリアスさ、そしてペーソスを交えて描写された本作は、ヒトラーを描いた『モレク神』、レーニンを描いた『牡牛座 レーニンの肖像』に続く、アレクサンドル・ソクーロフ監督の20世紀の指導者を描く4部作の3作目にあたる。
ロシアの映画だがセリフは全編日本語と英語である。映画評論家の樋口泰人は、真偽は不明ながら、この作品は俳優たちに左右逆で演技をさせて、鏡に映したその鏡の映像をカメラが撮影したと聞いたと語っている。
2005年ベルリン国際映画祭上映作品。同年第13回サンクトペテルブルク国際映画祭においてグランプリを獲得した。(Wikipedia

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昭和天皇 がモデルの映画 太陽 – The Sun

Movie

アレクサンドル・ソクーロフ監督 「太陽 」 – 予告編

概要

1945年の8月から翌46年にかけて、昭和天皇が連合軍への降伏を受け入れ、人間宣言に至るまでの心の移ろいを描く異色の伝記ドラマ。
監督は「エルミタージュ幻想」のアレクサンドル・ソクーロフ。
歴史上の人物を描くという構想の全4部作のうち、ヒトラーの「モレク神」、レーニンの「牡牛座 レーニンの肖像」に続く第3作目。

ストーリー

1945年8月。
地下の待避壕たいひごうでの生活を送る昭和天皇は、御前会議(大日本帝国憲法下の日本において、天皇臨席の下で重要な国策を決めた会議)で明治天皇の歌を詠み、降伏する用意があることを示唆する。
数日後、天皇は黒いフロックコートと黒い帽子に着替える。
占領軍最高司令官であるダグラス・マッカーサーとの会見が行われるのだ。
天皇はマッカーサーに、連合軍のどのような決定も受け入れる準備があると告げ、会見は短時間で終わった。
マッカーサーとの二度目の会談はディナーを終えた晩、天皇はひとり思い悩む。
疎開先から戻ってきた皇后に、天皇は「人間宣言」をすることを決意したと注げる。

見どころ

待避壕内での御前会議
待避壕内での御前会議
実際の「昭和天皇御前の大本営会議の様子」
実際の「昭和天皇御前の大本営会議の様子」アサヒグラフ増刊 天皇皇后ヨーロッパご訪問の旅』(朝日新聞社、1971年)Wikipedia
米軍から配られたチョコレート
米軍から配られたチョコレートは天皇にも届けられた。
Macarthur hirohito.jpg
実際の「マッカーサーと昭和天皇」
Macarthur hirohito” by U.S. Army photographer Lt. Gaetano Faillace – United States Army photograph. Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.
マッカーサーとの二度の会談はとても興味深い。
マッカーサーとの二度の会談はとても興味深い。
人間宣言を録音した技師は、録音後自決したと報告を受ける。
人間宣言を録音した技師は、録音後自決したと報告を受ける。
終戦直後の東京
天皇は米軍の迎えの車に乗り、がれきと化した東京を走る。
米軍の迎えの車
天皇のもとへ迎えに来た米軍の自動車

昭和天皇

1901年4月29日 – 1989年1月7日
日本の第124代天皇(在位:1926年12月25日 – 1989年1月7日)。
諱は裕仁ひろひと
歴代天皇の中で在位期間が最も長く(62年)長寿(87)だった。

象徴天皇

Hirohito in dress uniform1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。
2月19日、戦災地復興視察のため横浜へ行幸(1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した)。
11月3日、日本国憲法を公布した。
1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法が施行され、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。
6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて「わたくし」を使う。
1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。
1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で行われた主権回復記念式典で天皇退位説を否定する。また同年には、伊勢神宮と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、日本の国家主権回復を報告した。
10月16日、初めて天皇・皇后がそろって靖国神社に親拝した。
1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリス・オランダなどヨーロッパ各国を歴訪。
1975年(昭和50年)、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた。
1976年(昭和51年)には、在位五十年記念事業として、立川飛行場跡地に国営昭和記念公園が建設された。記念硬貨が12月23日から発行され、発行枚数は7,000万枚に上った。
1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。
1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、神代を除く歴代天皇で最長の在位期間を記録した。
1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日の祝宴を体調不良から中座する。以後、体調不良が顕著となり、特に9月下旬以降、病状は急速に悪化し9月19日には吐血するに至ったため、9月22日に歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。同年12月には公務に復帰し、回復したかに見えたが体重は急速に減少しており、1988年(昭和63年)9月以後、容態は再び悪化した。
8月15日、全国戦没者追悼式が最後の公式行事出席となり、日本各地では「自粛」の動きが広がった(後述)。
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)により崩御(宝算87)。神代を除く歴代の天皇で最も長寿であった。崩御後、政府は宮内庁長官・藤森昭一が「天皇陛下におかせられましては、本日、午前六時三十三分、吹上御所において崩御あらせられました。」と発表した。
同年(平成元年)1月31日、今上天皇が、在位中の元号から採り昭和天皇と追号した。
2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点余りが、副葬品として共に納められたとされる。

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