65.ヴェルサイユ体制の成立

  1. ヴェルサイユ体制とワシントン体制
  2. 国際協調主義の進展
  3. ヴェルサイユ体制下のヨーロッパ

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65.ヴェルサイユ体制の成立

ヴェルサイユ体制 ヴェルサイユ体制の成立
ヴェルサイユ体制の成立流れ図©世界の歴史まっぷ

1. ヴェルサイユ体制とワシントン体制

ヴェルサイユ体制

革命後のソヴィエト政府が和平をよびかけ秘密外交を暴露したことは、全交戦国に衝撃を与えた。この動揺を鎮めるため、1918年1月、米大統領ウィルソンは十四カ条の平和原則を発表した。これが パリ講和会議 の基本原則となった。しかし パリ講和会議 では、仏のクレマンソーや英のロイド=ジョージが指導権を握り、対独強硬姿勢を貫いたため、ヴェルサイユ条約はドイツにとってきわめて厳しい内容となった。これによってドイツはすべての植民地を失い、アルザス・ロレーヌをフランスに割譲し、人口の約10%、ヨーロッパ領土の13%を失った。軍備は制限され、ラインラントの武装は禁止され、ライン川左岸(西側)は旧連合軍により保障占領された。また賠償金は1921年に1320億金マルクと定められた。

パリ講和会議 で、連合国 はオーストリアとサン=ジェルマン条約、ハンガリーとトリアノン条約、ブルガリアとヌイイ条約、オスマン帝国とセーヴル条約 をそれぞれ個別に結んだ。これらによって、東欧には多くの新興独立国が誕生した。そのねらいは、ドイツの再興をおさえることと、社会主義国ソ連を封じ込めることであった。 パリ講和会議 で決定したこうしたヨーロッパの新国際秩序をヴェルサイユ体制とよんでいる。

ワシントン体制

一方、アジア・太平洋地域では、1921〜22年、米大統領ハーディングの提唱により ワシントン会議 が開かれた。会議では米・英・日・仏・伊の主力艦の保有比率を定めた海軍軍備制限条約を結んだ。また、大戦中ドイツやロシアが後退するなかで、日本が急速に中国・太平洋に進出したため、これに不満をもつアメリカの主導で、日本の行動を制限する目的で1921年に太平洋の現状維持を求めた四カ国条約が、1922年には九カ国条約が結ばれ、中国の主導尊重と領土保全が約された。この会議でワシントン体制と呼ばれる東アジア・太平洋地域の新しい国際秩序が成立し、ヴェルサイユ体制を補完した。

2. 国際協調主義の進展

ドイツの犠牲のうえで成立したヴェルサイユ体制は、成立当初は不安定であった。ポーランドはロシアに侵攻してウクライナなどの一部を得、イタリアもユーゴスラヴィアと争ってフィウメを獲得した。なかでも賠償金の支払いをめぐって、1923年にフランスとベルギーがドイツのルール工業地域を占領した事件は、国際関係を緊張させた。しかし、1924年以降、国際協調の気運が高まって、1925年のロカルノ条約では、ドイツと西欧諸国の国境現状維持と相互保障が決まり、翌26年にはドイツは国際連盟に加入した。1928年、フランスのブリアン外相とアメリカのケロッグ国務長官の提唱で不戦条約(ブリアン・ケロッグ条約)が結ばれ、国際紛争解決の手段として戦争に訴えないことが誓われた。

一方、ヴェルサイユ条約で設置の決まった、ウィルソン提案の国際連盟は、世界の恒久平和を目的とする史上初めての大規模な国際機構であった。1920年に正式に発足し、スイスのジュネーヴに本部を置き、総会・理事会・連盟事務局を中心に運営された。しかしアメリカが孤立主義の立場から連盟に参加せず、また当初はドイツ・ソ連などを排除したため力は弱かった。そのうえ英・仏があまりに自国の利益本位に運営したので、連盟は結局、古い帝国主義の世界支配体制を再編・維持する機構になってしまった。さらに侵略に対する制裁手段が経済制裁にとどまったため、戦争を防止することができなかった。

3. ヴェルサイユ体制下のヨーロッパ

ヌイイ条約 サン=ジェルマン条約  パリ講和会議 とヴェルサイユ条約
ヴェルサイユ体制下のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

新興国

  • フィンランド
  • エストニア
  • ラトヴィア
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  • ポーランド
  • チェコスロヴァキア
  • ハンガリー
  • ユーゴスラヴィア

大戦後の領土の割譲に関連した地名

  • ❶ルール
  • ❷ラインラント
  • ❸ロレーヌ
  • ❹アルザス
  • ❺チロル
  • ❻トリエステ
  • ❼ポーランド回廊

参考