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6世紀末の内陸アジア地図

地名:内陸アジア, 北周, 陳, グプタ朝, ササン朝, 吐蕃, 吐谷渾, 突厥, ウテュケン山, 契丹, 高句麗, 新羅, 百済, ホータン, カシュガル, 建康, 長安, 成都, サマルカンド, クテシフォン, 高昌, トゥルファン

6世紀末の内陸アジア地図

6世紀になると、アルタイ山脈を本拠地とするトルコ系の突厥とっけつが目覚ましい発展をとげた。突厥ははじめ柔然に服属していたが、優れた製鉄技術(アルタイ山脈は鉄鉱の産地であった)や「草原の道」の交易の利によって力を蓄え、木汗可汗ぼくかんかがんのとき柔然を滅ぼし(555)、ササン朝のホスロー1世と結んでエフタルを滅ぼして(567)、モンゴル高原からカスピ海にいたる大帝国を樹立した。以後、突厥およびこれにかわったウイグルと、内陸アジアの草原地帯はしばらくトルコ民族の制圧するところとなり、中国の強敵として隋、唐帝国と交戦を重ねることになった。
583年、突厥は内紛によって、モンゴル高原を本拠地とする東突厥と、中央アジアを本拠地とする西突厥に分裂した。
隋との力関係で劣勢となった東突厥は隋に服属したが、隋が滅びると勢力を回復し、連年のように唐に入寇した。しかし、やがて内紛と唐(王朝)攻撃により、630年に東突厥国家(第一可汗国)は崩壊する。以後、東突厥は唐(王朝)羈縻きび支配下に入ったが、682年にいたって唐(王朝)支配下から離脱し、ふたたびモンゴル高原に強大な国家を樹立した。これを第二可汗国と呼ぶ。
一方、西突厥は、652年、唐(王朝)攻撃をうけて滅亡した。なお、突厥は突厥文字をつくったが、これは内陸アジアの遊牧民が使用した最初の文字である。
第二可汗国時代にオルコン河畔に建立された碑文(突厥碑文)は、突厥の歴史や文化、古代トルコ語に関する貴重な資料であり、19世紀末、デンマークのトムセンは、同碑文をもとに突厥文字を解読した。

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6世紀末の内陸アジア地図
6世紀末の内陸アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

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