54.オスマン帝国支配の動揺と西アジア
54.オスマン帝国支配の動揺と西アジア流れ図 ©世界の歴史まっぷ

54.オスマン帝国支配の動揺と西アジア

  1. オスマン帝国支配の動揺と改革
  2. アラブ民族のめざめ
  3. エジプトの改革と挫折
  4. イラン・アフガニスタンの動向
  5. 19世紀の西アジア

54.オスマン帝国支配の動揺と西アジア

1. オスマン帝国支配の動揺と改革

オスマン帝国は1683年の第2次ウィーン包囲に失敗し、1699年のカルロヴィッツ条約でオーストリアにハンガリーなどを奪われ、さらに18世紀の後半には黒海北岸をロシアに奪われた。19世紀になると、その支配下にあった諸民族の自立や列強の干渉を受け、支配力が低下した。こうしたなかで近代化が進められ、1826年にイェニチェリが廃止され西欧式の軍隊が組織された。アブデュルメジト1世により1839年からタンジマートとよばれる上からの改革が行われたが、旧勢力の反対で挫折し、列強への経済的従属をさらに強めた。国内では再び改革を求める気運が高まり、1876年にミドハト憲法が発布された。しかし翌77年、ロシア=トルコ戦争が始まるとアブデュルハミト2世は憲法を停止し、以後30年にわたりスルタンの専制政治が復活した。

2. アラブ民族のめざめ

18世紀半ば、アラビア半島でワッハーブ派の運動がおこった(ワッハーブ運動)。この運動は、イスラーム教の堕落の原因をイラン人やトルコ人がもたらした神秘主義(スーフィズム)と聖者崇拝の慣行にあたるとし、本来のムハンマドの教えに帰れと説くイスラーム教の革新運動で、近代におけるアラブの民族的自覚の先駆となった。ワッハーブ派のアラブ人たちは豪族サウード家と結んで1744年、ワッハーブ王国を建てた。

3. エジプトの改革と挫折

1805年、エジプトの総督となったムハンマド=アリーは、フランスの援助によって近代化政策を推進し、政治的・経済的自立に努めた。ギリシア独立戦争にさいしては、オスマン帝国を助けその代償にシリアの領有を主張して、オスマン帝国と2度戦った(エジプト=トルコ戦争)。また、フランス人レセップスの努力により1869年にスエズ運河が完成したが、エジプトは財政破綻に陥った。そこでイギリスの首相ディズレーリは、1875年にエジプト所有の運河会社の株券を買収し、フランスとともにその支配権を握った。このような外国支配に反抗して1881年ウラービーがたちあがると、イギリスは単独でエジプトを軍事占領し、事実上これを支配下においた。「エジプト人のためのエジプト」をスローガンとするウラービー運動は、その後のエジプト民族主義運動の原点となった。

4. イラン・アフガニスタンの動向

イランでは18世紀末にテヘランを首都とするトルコ系のカージャール朝がカフカスをめぐるロシアとの戦いに敗れ、1828年トルコマンチャーイ条約を結び、ロシアに治外法権を認め、東アルメニアを割譲した。このような混乱を背景に1848年、外国勢力と封建支配に反抗するバーブ教徒の乱がおこったが鎮圧された。さらにカージャール朝はイギリスと戦って敗れると、イギリスにも治外法権を与えた。ロシアの南下を防ぎ、インドの植民地を守ろうとするイギリスは、アフガニスタンとの間に3次にわたるアフガン戦争をひきおこし、第2次アフガン戦争の勝利によってアフガニスタンを保護国とした。

5. 19世紀の西アジア

オスマン帝国の領土縮小地図

  • ❶ 1683 第2次ウィーン包囲失敗
  • ❷ 1699 カルロヴィッツ条約:ハンガリーの主要地域などをオーストリアに割譲
  • ❸ 1828 トルコマンチャーイ条約:イラン、ロシアにアルメニアを割譲
  • ❹ 1869 スエズ運河開通
  • ❺ 1878 ベルリン条約:①セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立承認 ②ブルガリアの領土縮小 ③イギリス、キプロス島の行政権を獲得 ④オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナの占領と行政権獲得

オスマン帝国支配の動揺と西アジア流れ図

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