宗教改革の意義 37.宗教改革
バーデン=ヴュルテンベルク州の教会のステンドグラス(ルターとカルヴァン)Wikipedia

37.宗教改革

8. 近世ヨーロッパ世界の形成


37.宗教改革

37.宗教改革

1.宗教改革の背景

宗教改革の要因

  1. 教会はウィクリフやフスなどの先駆的な改革はおさえこんだものの、すでに民衆の魂を救済する生命力を失い、教会体制の変革を望む声が後を絶たなかった。
  2. エラスムスなどヒューマニストが、教会の悪弊を攻撃し、宗教改革の機運を盛り上げた。
  3. 封建社会の崩壊が中産階級を成長させ、彼らの精神的な支えとなる信仰が求められるようになった。

レオ10世(ローマ教皇)はサン・ピエトロ大聖堂の新築資金調達のため、ドイツで贖宥状しょくゆうじょう(免罪符)を販売した。ドイツは政治的に分裂しており、ローマ教皇の政治的干渉や搾取を受けやすく「ローマの牝牛めうし」と言われていた。マルティン・ルターはこれに対し純粋な信仰を求める神学上の理由で、1517年「九十五ヶ条の論題」を発表した。

2.ルター・カルヴァンの改革とカトリック教会の改革・巻き返し

ドイツ

マルティン・ルターは信仰のよりどころは聖書であり、人は信仰によってのみ義(ただしいこと)とされるという信仰義認説をとなえ、「キリスト者の自由」を著した。カール5世(神聖ローマ皇帝)ヴォルムス帝国議会を開き、ルターに諸説の取り消しを要求したが、彼は屈しなかった。法律上の保護を奪われたルターは、フリードリヒ3世(ザクセン選帝侯)の保護を受け「新約聖書」のドイツ語訳に努めた。

彼の説は各層に影響を与え、農民は農奴制の廃止などの要求を掲げてドイツ農民戦争をおこした。この反乱はトマス・ミュンツァーの指導で拡大・急進化したが、鎮圧された。
旧教徒(カトリック)と新教徒(プロテスタント)の争いはシュマルカルデン戦争にまで発展したが、宗教内乱は1555年のアウクスブルクの和議で一応終結した。和議はルター派を容認して、新・旧両派の選択権を領主に与えたが、カルヴァン派の信仰や領民個人の信仰の自由は認められなかった。やがてルター派は北欧諸国にも広がった。

スイス

スイスでは、フルドリッヒ・ツヴィングリがチューリヒで宗教改革を開始したが、その後、フランスの人文主義者で「キリスト教綱要」を公刊したジャン・カルヴァンがジュネーヴで独自の宗教改革をはじめた。
彼は魂の救済は人間の意志による者ではなく、神によりあらかじめ決められているという予定説をとなえた。また「神の栄光を表すため、信徒は禁欲的な態度で各自の職業労働にはげむべきであり、正当な営利行為はゆるされる」と説いた。このためカルヴァン主義は、勃興しつつある初期資本主義の精神的な支えとなった。カルヴァン派は信仰市民階級に広まり、イギリスでピューリタン、フランスでユグノー、オランダでゴイセン、スコットランドではプレスビテリアンとよばれた。

イギリス

イギリスではヘンリー8世(イングランド王)が離婚問題をきっかけに首長法(国王至上法)を発布し、国王がイギリス国内の教会の首長であると宣言して教皇と断絶した。その後、エドワード6世(イングランド王)、メアリ1世(イングランド女王)の宗教混乱期をへて、エリザベス1世(イングランド女王)が1559年統一法を発布して混乱を鎮め、イギリス国教会を確立した。

カトリックの改革

一方、カトリック教会はトリエント公会議を開き、内部の粛清、教義と教皇の至上権の再確認、宗教裁判所の強化などを決定した。また、イグナティウス・ロヨラの創設したイエズス会は、厳格な組織と規律をもって旧教側の尖兵せんぺいとなった。カトリック側の巻き返しは各地で新・旧両派の対立の激化をまねき、フランスのユグノー戦争オランダ独立戦争、ドイツの三十年戦争などの宗教戦争を多発させた。

3.キリスト教の分布

カルヴァンの改革 新旧両教派の分布地図 ドイツにおける宗教改革運動の展開
新旧両教派の分布地図 ©世界の歴史まっぷ
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