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193年 徐州の戦いの頃の勢力図 - 三国志
193年 徐州の戦いの頃の勢力図

193年 徐州の戦いの頃の勢力図 – 三国志

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193年 徐州の戦いの頃の勢力図 – 三国志
193年頃、袁術は曹操の兗州えんしゅうに攻め込んだ(袁術の侵攻には朝廷により兗州刺史に任命された金尚と馬日磾を伴っていた)。
袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は劉備や徐州牧・陶謙を派遣する。曹操は袁紹と協力してこれらと当たり、その全てを打ち破った(匤亭の戦い)。
敗れた袁術は、劉表に背後を絶たれ、本拠地の南陽郡を捨て、寿春に落ち延びていった。

この頃、曹操は陶謙に父・曹嵩や弟・曹徳を含めた一族を殺されていた。
193年秋、その恨みから復讐戦を行うことを決意し、50万の兵力で徐州に侵攻、陶謙から十数城を奪い、彭城での戦いで陶謙軍に大勝し、数万人を殺した。
『三国志』武帝紀によれば、通過した地域で多数の者を虐殺したという。このことは後世の『後漢書』によれば、「曹操は数十万人の男女を殺し、曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえ聞こえなくなり、死体のため泗水の流れが堰き止められたと言われるほどの惨状であった」と書かれており、この虐殺によって曹操は非常に評価を落としたとされる。
194年夏、曹操は再び徐州に侵攻し、通過した地域で多くの人を虐殺した。ところが、親友の張邈ちょうばくが軍師の陳宮と謀り呂布を迎え入れ反逆したため、領地である兗州の大半は呂布のものとなった。

Wikipediaより

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193年 徐州の戦いの頃の勢力図 – 三国志

193年 徐州の戦いの頃の勢力図
193年 徐州の戦いの頃の勢力図

193年 徐州の戦い

場所: 徐州
交戦: 曹操軍 対 陶謙軍

曹操は父の弔い合戦のため、徐州討伐に出る。陶謙は白い喪服に身を包んで謝罪するが、曹操は三日以内に徐州を下すと宣言する。陶謙は、復讐とは名ばかりで城を取るのが曹操の目的と悟り、袁紹、袁術に援軍を乞う手紙を出すが、無視されてしまう。北平太守の公孫瓚のもとに身を寄せていた劉備は、陶謙救援を主張し、徐州へと急ぐ。陶謙は劉備の行為にいたく感動する。

詳しくは三国志 Three Kingdoms 全95話あらすじ

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