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16世紀なかばのヨーロッパ地図
地名: スペイン系ハプスブルク家, オーストリア系ハプスブルク家, 神聖ローマ帝国, マドリード, エディンバラ, ナント, キエフ, ベルリン, シュマルカルデン, ペスト, ブダ, ヴェネツィア, ミラノ, パリ, ローマ, ナポリ, カレー, アムステルダム, フィレンツェ, ロンドン, レパントの海戦, プレヴェザの海戦, ウィーン, コンスタンティノープル, リスボン, ワルシャワ, アイルランド, ベーメン, ブランデンブルク, ザクセン, スイス, バイエルン, プロイセン, ネーデルラント, オーストリア, ポーランド王国, リトアニア大公国, フランス王国, イングランド王国, ロシア帝国, オスマン帝国, デンマーク王国, スウェーデン王国, スコットランド王国, ポルトガル王国, スペイン王国, ジェノヴァ共和国, 教皇領, ナポリ王国, ヴェネツィア共和国, ハンガリー

16世紀なかばのヨーロッパ地図

16世紀なかばのヨーロッパ地図
16世紀なかばのヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

凡例

ハプスブルク家の領土

ハプスブルク家とは、ヨーロッパ随一の名門王家。現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。

スペイン系
スペイン・ハプスブルク朝

スペイン・ハプスブルク朝は、16世紀初めから17世紀末まで続いた、ハプスブルク家によるスペイン統治時代を指す。
ハプスブルクのスペイン語名によりアブスブルゴ朝とも呼ばれる。
この時代、スペインはアメリカ大陸や太平洋(フィリピン、マリアナ諸島)に広大な植民地(ヌエバ・エスパーニャ)を有し、またヨーロッパにおいてもネーデルラント、フランシュ=コンテ、北イタリア(ミラノ公国)、南イタリア(ナポリ王国、シチリア王国、サルデーニャ)などを支配下に置いた。カルロス1世はまた神聖ローマ皇帝を兼ねた。
1580年から1640年にかけてはポルトガル王も兼ねることで、イベリア半島全域を支配(イベリア連合(英語版))するだけでなく、ポルトガルが南米やアフリカ、アジア沿岸に持っていた植民地をも併せ持つことになった。

オーストリア系
オーストリア系ハプスブルク家

オーストリア系ハプスブルク家(オーストリア・ハプスブルク家)は、カール5世の弟フェルディナント1世に始まる(ハプスブルク君主国)。
1648年に三十年戦争終結とともに結ばれたヴェストファーレン条約によって弱体化した。
しかしオスマン帝国の第二次ウィーン包囲(1683年)撃退の後、ハプスブルク家は力を取り戻し、オスマン帝国を破りオスマン帝国支配下にあったハンガリーを奪還する(1699年、カルロヴィッツ条約)。スペイン継承戦争では、ハプスブルク家に支援を申し出たホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世に「プロイセンの王」の称号を認めるなど、神聖ローマ皇帝としての権威を示す。

1740年、カール6世が男子を欠いたまま没したため、神聖ローマ皇帝位を喪失し、オーストリアは長女マリア・テレジアが相続したものの、それを不服とするプロイセンなど列強との間にオーストリア継承戦争が勃発した。オーストリアはシュレージエンを失うなど一時苦境に陥るが、イギリス(グレートブリテン王国)の援助を受けて劣勢を挽回し、1748年アーヘンの和約によってオーストリア、ボヘミア、ハンガリーの相続を承認される。また、マリア・テレジアの夫であるロレーヌ家(ロートリンゲン家)のフランツ・シュテファンが1745年に帝位を奪還した。その後、大国化するプロイセン王国に対抗するためフランス王国と接近した(外交革命)。フランス王太子ルイ(ルイ16世)とマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)の結婚もその一環である。しかしこの行為でドイツ諸侯の支持を失い、神聖ローマ皇帝としての権威を損なう結果となった。それでもオーストリアは大国としての地位を確保し、プロイセン、ロシアと共にポーランド分割に参加した。さらにマリア・テレジアとその息子ヨーゼフ2世は啓蒙主義を推し進めるなど、積極的に富国強兵に努めた。

1789年のフランス革命は、ハプスブルク家に衝撃を与えた。ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑はハプスブルク家に脅威を与え、プロイセンと共にフランスに出兵する(フランス革命戦争)。しかし革命政府軍に敗れるなど失態を演じ、さらにナポレオン・ボナパルトの台頭を許し、やがて全ヨーロッパがナポレオン戦争の災禍に呑み込まれて行く動乱の時代に突入する。

プレヴェザの海戦

プレヴェザの海戦 – 世界の歴史まっぷ

レパントの海戦

レパントの海戦 – 世界の歴史まっぷ

ハプスブルク家 – 世界の歴史まっぷ

参考

詳説世界史研究

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