22.十字軍と都市の発展流れ図 22.西ヨーロッパ中世世界の変容(十字軍と都市の発展)
22.十字軍と都市の発展流れ図 ©世界の歴史まっぷ

22.西ヨーロッパ中世世界の変容(十字軍と都市の発展)

5.ヨーロッパ世界の形成と発展


22.西ヨーロッパ中世世界の変容(十字軍と都市の発展)

  • 1. 十字軍と西欧世界の誇張
  • 2. 遠隔地貿易の発達と貨幣経済の進展
  • 3. 荘園制の崩壊
  • 4. 教皇権の衰退

22.西ヨーロッパ中世世界の変容(十字軍と都市の発展)

1. 十字軍と西欧世界の誇張

温和な気候が続いた西ヨーロッパでは、11世紀頃から三圃制の普及や農業技術の進歩によって農業生産力が飛躍的に増大し、人口も増えた。それとともに、ドイツ人の東方移民、イベリア半島の国土回復運動など西ヨーロッパ世界は外に向かって拡大に転じたが、その最も大きな運動が十字軍であった。

11世紀後半セルジューク朝が聖地イェルサレムの巡礼を妨害し、さらに小アジアに進出しビザンツ帝国を脅かした。そこでビザンツ皇帝から援助の要請を受けたウルバヌス2世(ローマ教皇)は、1095年クレルモンの宗教会議で、聖地奪還をめざす十字軍を提唱した。第1回の遠征ではイェルサレム王国を建設し、聖地奪還を果たしたが、その聖地も12世紀末にアイユーブ朝サラディンに奪われた。

ラテン帝国 十字軍の影響 十字軍の遠征路とラテン帝国地図
十字軍の遠征路とラテン帝国地図 ©世界の歴史まっぷ

第4回十字軍はヴェネツィア商人の貿易上の利権に動かされ、聖地奪還に向かわず、コンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建国した。当初の目的からはずれた結果に終わったが、このような遠征はその後の西ヨーロッパ世界に大きな影響を与えた。

2. 遠隔地貿易の発達と貨幣経済の進展

商業ルネサンス ロンバルディア同盟 中世都市の成立と遠隔地商業 ハンザ同盟 遠隔地商業 中世の商業地区-ハンザ同盟主要加盟都市地図
中世の商業地区-ハンザ同盟主要加盟都市地図 ©世界の歴史まっぷ

十字軍以降、諸地域の物産物を海路や陸路を通じて交易する、遠隔地貿易が発達した。11〜12世紀に見られるこのような商業や都市の発展を、商業の復活(商業ルネサンス)とよぶ。イタリア諸都市は東方貿易で繁栄し、北ドイツ諸都市はリューベックを盟主にハンザ同盟を結び、北方における遠隔地貿易をになった。地中海と北海・バルト海商業圏を結びつけるルートが生まれ、河川輸送の便に恵まれたシャンパーニュ地方が繁栄し、14世紀には沿岸航路の開拓により、繁栄の中心は毛織物工業で知られるフランドル地方に移行した。商人・手工業者が新しく集落をつくり、中世都市が形成された。都市は皇帝・国王より特許状をえて自治権を獲得した。自治を推し進める力となったのは、都市の商工業者たちであった。初め遠隔地貿易に従事する大商人を中心に組織された商人ギルドが市政を独占した。しかしこれに不満をもつ手工業者は職種別に同職ギルドを組織し、大商人と闘争(ツンフト闘争)を展開し市政に参加していった。上層市民のなかには、アウクスブルクのフッガー家のように皇帝に融資してその地位を左右したり、フィレンツェのメディチ家のように一族から教皇を出す富豪も現れた。

3. 荘園制の崩壊

貨幣経済が荘園にも浸透してくると、領主は貨幣経済に対応するため、直営地での農奴の賦役を廃止し、直営地を農奴に貸与して、そこから生産物地代や貨幣地代を徴収するようになった。この結果、農民の富の蓄積が可能になった。14世紀半ば黒死病(ペスト)という伝染病が西欧に流行し、そのため農民労働力は激減した。領主は労働力を確保する必要から農民の待遇改善をしなければならなかったので、さらに農民の富裕化が進んだ。

荘園の崩壊流れ図 ©世界の歴史まっぷ
荘園の崩壊流れ図 ©世界の歴史まっぷ

それに対して困窮の度を増した領主たちは、経済的苦境を切りぬけようと、農民からの収奪を厳しくする封建反動をくりかえした。それに対して農民は一揆でこたえ、イギリスではワット・タイラーの乱が、フランスではジャックリーの乱がおこった。領主経済の破綻により経済的基盤を失った中小領主である騎士は、国王による傭兵制の導入や、戦術の変化によりその軍事的意義を失い、国内の統一を進める国王の廷臣になるよりほかはなかった。

4. 教皇権の衰退

十字軍の失敗や王権の強化にともなって、ローマ教皇の権威は衰えをみせるようになった。13世紀末に教皇となったボニファティウス8世(ローマ教皇)は聖職者への課税をめぐって対立したフィリップ4世(フランス王)に捕らえられ、屈辱のうちに死んだ(アナーニ事件)。その後、教皇庁は南フランスのアヴィニョンに移され、以後約70年間、教皇はフランス王の支配下におかれた。これを古代のバビロン捕囚にたとえて「教皇のバビロン捕囚」という。その後、ローマ教皇がローマに戻るとアヴィニョンにも別の教皇がたつ教会大分裂(大シスマ)がおき、教皇と教会の権威はいちじるしくそこなわれた。一方、イギリスのジョン・ウィクリフやベーメンのヤン・フスは、聖書を信仰のよりどころとして、教会の世俗化と腐敗を批判した。しかしコンスタンツ公会議で彼ら2人は異端と宣告されたため、フスは火刑に処せられた。一方、ベーメンではフス派の人々の反乱が長く続いた(フス戦争)。

参考 流れ図で攻略詳説世界史B―New

十字軍と都市の発展流れ図

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