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隋の統一 隋(王朝) 隋との交渉 隋の統一地図
隋の統一地図 ©世界の歴史まっぷ

隋の統一(6世紀頃)地図

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隋の統一(6世紀頃)地図
地名:隋, 煬帝, 運河, 高句麗遠征, 吐谷渾, タングート, 雲崗, 余杭, 杭州, 金城, 洛陽, 汴州, 開封, 南海, 広州, 江都, 揚州, 明州, 大興城, 長安, 敦煌, 酒泉, 武威, 成都, 平壌, 潼関, 涿郡, 北京, 張掖, 鄯善, 楼蘭, 西突厥, 東突厥, 高句麗, 百済, 新羅, 日本, 淮河, 江南河, 黄河, 広通渠, 山陽瀆, 通済渠, 永済渠

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隋の統一地図
隋の統一地図 ©世界の歴史まっぷ

凡例

(581年〜618年)
中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(長安、現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。

隋 – 世界の歴史まっぷ

581年 建国時

楊堅ようけんの父・楊忠ようちゅうは北魏が西魏・東魏に分裂する際(後にそれぞれ北周・北斉が取って代わる)に宇文泰うぶんたい(北周の基礎を築いた)に従って西魏の成立に貢献し、大将軍を務め、隋国公の地位を得ていた。
568年に楊忠は死去し、楊堅が大将軍・随国公の地位を受け継いだ。
武帝(北周)は宿敵の北斉を滅ぼし、更に南の陳を滅ぼす前段階として北の突厥への遠征を企図していたが、576年に崩御した。
武帝の跡を継いだ宣帝(北周)は奇矯な人物で、5人の皇后を持っていた。このうちの1人が楊堅の長女である楊麗華ようれいかであり、麗華は宣帝の側室である朱満月しゅまんげつが生んだ太子の宇文闡(後の静帝)を育てた。
宣帝の奇行は留まる所を知らず、在位8ヶ月で退位して静帝に位を譲り、自らは天元皇帝を名乗って政務を放棄したので、静帝の後ろに立つ丞相の楊堅への声望が高まっていった。580年に宣帝が崩御すると、楊堅は静帝の摂政として全権を掌握した。
これに反発する武川鎮軍閥内の有力者たちは楊堅に対して反乱を起こす。この中で最も大規模なものが尉遅迥うっちけいによるもので、一時は楊堅の押さえる関中地域以外の全てで反乱が起きるほどになったが、楊堅は巧みにこれを各個撃破して、北周内に於ける覇権を確固たるものとする。
同年末に随国公から随王へと進み北周の兵権を与えられ、更に581年に静帝より禅譲を受けて隋を建国した。

589 中国統一

すでに武帝(北周)により南北統一への道筋は引かれていたが、慎重な文帝(隋)は細かい準備を丹念に進めた。
当時、南朝の陳では宣帝(陳)が北周末期より江北への進出を試みていたが、文帝は陳の間諜を捕縛しても衣服や馬を給して厚く礼をして送り返し、陳とは友好関係を保つようにしていた。
582年、文帝は陳に対して討伐軍を送り出したが、この年に宣帝が崩御した事もあり、討伐を中止して使者を派遣して弔意を表して軍は撤退した。
北の突厥に対しては長城を修復して防備を固める。
584年に突厥が北方で暴れると、文帝は長城を越えて突厥を攻撃し、その後文帝は突厥内部に巧みに介入して東西に分裂させた。
そして淮河と長江を結ぶ邗溝かんこうを開削して補給路を確保する。
更に、かつて南朝梁から分裂し、北朝の傀儡政権となっていた後梁を併合して前線基地を作る。
また文帝は連年に渡り農繁期になると軍を南下させる気配を見せて陳軍に常に長江沿岸に大軍を配置させる事を繰り返させる事で人心を動揺させて収穫を減らさせ、さらに間諜を使って民家に放火させたりした。
こうして陳の国力は急速に衰退し、また皇帝が宣帝の子陳叔宝でこれが暗愚極まりない愚帝だったため、陳は内部からも次第に崩壊の色を深めた。
588年、文帝は陳への遠征軍を出発させる。この時の遠征軍の総指揮官が文帝の次男楊広(後の煬帝)であり、51万8000という過大とも思える大軍の前に589年に陳の都建康はあっけなく陥落し、陳の皇帝陳叔宝は井戸に隠れている所を捕らえられた。ここに西晋滅亡以来273年、黄巾の乱以来と考えると実に405年の長きにわたった分裂時代が終結した。

文帝(隋) – 世界の歴史まっぷ

610 煬帝の征服地

604年、文帝の崩御により次男の楊広が煬帝として即位した。
洛陽を東都に定めた他、文帝(隋)が着手していた国都大興城(長安)の建設を推進し、また100万人の民衆を動員し大運河を建設、華北と江南を連結させ、これを使い江南からの物資の輸送を行うことが出来るようになった。対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、吐谷渾、林邑、流求(現在の沖縄)などに出兵し版図を拡大した。

煬帝 – 世界の歴史まっぷ

運河

大運河は、旧中国において北と南を結ぶ主要な交通輸送路であった。隋以前にも地方別に運河の開削が試みられ、文帝(隋)、煬帝が以下のように整備され開通した。
これらの大運河は、次の唐(王朝)時代になってから、江南より洛陽・長安へ穀物などを輸送することにおいて大いに活用された。
宋をへて元代になって大運河は補修され、あらたに済州河さいしゅうが会通河かいつうがが開かれ、江南の杭州より華北の天津に至る輸送路が完成した。
清末以降、他の交通機関の発達にともなって大運河の重要性は減じたが、今でも安価な交通輸送の手段として利用されている。
中国の世界遺産「大運河」に登録されている。

文帝(隋)の整備した大運河
  • 広通渠こうつうきょ 黄河〜長安 584年開通
  • 邗溝かんこう (山陽瀆) 淮河〜長江 587年開通
煬帝の整備した大運河
  • 通済渠つうさいきょ 黄河〜淮河 605年開通
  • 永済渠えいさいきょ 黄河〜涿郡 608年開通
  • 江南河こうなんが 鎮江ちんこう杭州こうしゅう 610年開通

大運河 – 世界の歴史まっぷ

高句麗遠征

隋(王朝)高句麗遠征は、598年から614年まで4回にわたって行われた。煬帝は612年に高句麗遠征を実施する。
煬帝の高句麗遠征は3度実施されたが失敗に終わり、高句麗に離反して送還された斛斯政こくしせいを射殺に処するなど、これにより隋(王朝)権威は失墜した。
また国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買い、第2次遠征途中の楊玄感ようげんかんの反乱など各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた。各地で李密、李淵ら群雄が割拠する中、煬帝は難を避けて江都に逃れた。

参考

詳説世界史研究

隋(王朝)統一(6世紀頃)地図が登場する作品

隋唐演義

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