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ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 セカンド
ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 セカンドシーズン

ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 セカンドシーズン 登場人物とあらすじ

海外ドラマ

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ボルジア家 愛と欲望の教皇一族

ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 セカンド シーズン

思惑と駆け引きが交差する中、激化する覇権争い!

あの「ボルジア家」が帰ってきた。セカンドシーズンには、さらなる誘惑と陰謀、悪行を描き出す全10話が収録。前シーズンに引き続き、アカデミー賞受賞のジェレミー・アイアンズが演じるロドリーゴ・ボルジアは、権力に貪欲なボルジア一族の家長。陰謀を企て、教皇アレクサンデル6世としてローマ社会の頂点に上りつめた。しかし、絶対的な権力者には、より強力な敵がつきものだ。敵も手段を選ばずにボルジア打倒を試みる。教皇が敵を破滅に追い込もうと画策する一方で、ジュリア・ファルネーゼ(ロッテ・ファービーク)は、愛人としての自分の立場が極めて危うくなっていることに気づいてしまう。娘のルクレツィア(ホリデイ・グレインジャー)は、赤ん坊を育てながら新たな求婚者らを弄ぶ。息子のチェーザレ(フランソワ・アルノー)とホアン(デヴィッド・オークス)は、兄弟間でのライバル心を激化させていく。評論家っちにも絶賛された、教皇一族で巻き起こる最高峰の愛憎ドラマを一瞬たりとも見逃すな。

時代背景

15世紀とボルジア家

権力

ボルジア家は権力が全て。中世のイタリアにおいて特に強力で残忍で人の道に外れた一族だった。
当時の権力を得る手段としては姻戚関係や軍事征服、そして軍事費を稼ぐ銀行取引。名家となるためにこの3条件は必須だった。財産と人脈、軍隊がなければ地位と名誉は保てない。ルネサンス時代のイタリアには異なる政治部ループが多数混在した。教皇領は異なる一族が率いる複数の王国で構成され互いに牽制しあっていた。憎み合い、抗争を繰り返し、当時ローマの町中で一族の争いが原因の卑劣な乱闘や政治的殺人が多発していた。
教皇はカトリック教会の精神的指導者としてヨーロッパ全域に影響力があり、その上サン・ピエトロ大聖堂一帯の統治にも関与する。教皇の座に就いたロドリーゴ・ボルジアは自らローマ支配を試みる。うわさでは最大4名の枢機卿がボルジア家に毒殺され、命だけでなく財産も奪われた。また教会は”天国への切符”として神の恩恵がある贖宥状しょくゆうじょうを信者に売りその金でローマの土地を買い占めた。教皇は教会のトップとしてだけでなく地域一帯に権力を持ちローマ全域を政治的にも支配し、ローマの復興を試みた。

戦争

名誉をかけた貴族や征服目的の王、または金稼ぎの傭兵、どれもルネサンス時代の日常であり、教皇制度には争いごとが絶えなかった。
シャルル8世(フランス王)はナポリ征服を企み、フランス軍がフィレンツェに到達し恐れ入ったイタリア軍はフランスにひれ伏した。ローマは降参し3週間後にナポリが没落。この素早い攻撃は近代戦争の革命だった。武器と兵を伴ったフランス軍はイタリアに衝撃を与えた。
大砲や拳銃、砲弾は火薬技術の進化の象徴である。軍隊の規模は拡大し戦術が重視されるように有能なリーダーは後方で軍隊の配置を考え戦地全体を戦略的に捉える。
人文主義者が戦争をキリスト教文明の恥と呼ぶ一方、ルネサンス時代の王たちは驚くほどに残忍だった。

ローマ

ローマという地域はいわば崩れかかった古代史の破片。町には放牧された動物や無法者がいて決して安全ではない。市街戦が絶えず売春婦の数は7,000人。非常に危険な町だった。ヨーロッパ史上の大きな分岐点だった。
1492年、コロンブスがアメリカ大陸を発見。文化や芸術の見事な才能が溢れ出した時代。グーテンベルク印刷機の発明を機に600万部もの本が発行された。まさに盛期ルネサンス時代国中の優秀な画家たちも一堂に結集した。ルネサンスの意味は”再生”。つまり古代の文学や芸術の再発見。一方で残虐行為も多発した時代。非常に無慈悲な政治疑惑や被害妄想が溢れ、日常的に争いが起きる。ローマ市民の大半はやせ細り、衛生管理など皆無。蔓延する伝染病で全滅する町もあり生活は不安定だった。
そんな中、ボルジア家が目指したのが世界の先頭に立つローマの再建。ガイウス・ユリウス・カエサル統治下の輝きをボルジア家の元蘇らせること。
アレクサンデル6世(ローマ教皇)が 築いた新たな世界では教会の職務より名誉と権力を持つ王朝を重視し、危機的な時代の教皇制度を守った。彼の壮大な野望は一族でイタリアの中心部を支配し自己の王国を築くこと。彼は過剰な家族愛でそれを成し遂げた。

15世紀の恋愛とは金持ちの特権だった。同盟のための戦略結婚が多く、恋愛は結婚後に始まるものだった。女性が結婚相手を選ぶことはできず、女性は10代男性は30代が適齢期だった。つまり男性は結婚前に十分遊ぶ期間があった。家庭内では妻が夫に従属し常におとなしく従順であれと教育された。当時はこのような矛盾があちこちにあった。フランス革命まで教会は離婚を違法扱いにした。2人の個人が結婚すると新しい精神を持った一個人に成り変わるとされ離れることはできない。たとえ夫婦が別居したとしても離婚の概念は無かった。

セックス

セックスとは既婚者が新たな生命を誕生させる行為。それが教会の教えだが、実際にはかなり曖昧なものだった。非嫡出子が容認され、巷には夫婦以外のセックスが氾濫していた。新たな生命を生むことが神の定めたセックスなら、妊娠のないセックスは野蛮な行為。同性愛者は非難され、獣姦や近親相姦と同等とみなされた。大厄災や天災は男色者たちの行為が神の怒りに触れた結果の天罰であり許すべきでないとされていた。ヴァチカンは売春を同性愛よりましと捉えていた。
売春婦の生活は楽でななく常に非難を浴びる一方で貴族とのつながりもあった。当時ヨーロッパに初めて出現した梅毒は不治の病として恐れられ、アレクサンデル6世の次男のホアンも発症した。当時は特効薬がなく、魔術や占いに頼った末に水銀を使い始めた。しかし水銀は肌に触れただけで鉛中毒になる危険性があり非常にリスクの高い治療法だった。

毒薬

歴史の知識を通じて当時使われていた毒を推測することはできる。多かったのは有毒な植物ベラドンナや毒人参、乾燥したスペインバエを砕いたものやアジアから輸入されたストリキニーネ。一番広く使われ強力だったのは三酸化ヒ素。ヒ素は、様々な地層や鉱石の中に存在するため入手が比較的簡単だった。銅・鉛・銀・金の中にもヒ素は含まれ、鉱物中のヒ素は加工段階で取り除くため、産業工程の副産物となる。現代と同様金属技術が発達していた中世では三酸化ヒ素も広く普及していた。
科学や錬金術に強い関心を抱く人々は鉱物の純化など様々なことを試し熱心に研究していた。三酸化ヒ素の構造は昔から明らかで水中でも無色透明で無味無臭のためあらゆる面で理想的な毒だった。大量に摂取すると危険で、ボルジア家もこれを使ったと思われる。
カンタレラには多くの意味があり様々な説がある。基本的には強力な細胞性の毒のこと。

相関図

ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 セカンドシーズン
ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 セカンドシーズン 相関図

DVD

ボルジアにかかわるルネサンス都市

ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 セカンドシーズン
ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 セカンドシーズン

フォルリ

カテリーナ・スフォルツァの領地だったため教皇軍に狙われるも鎮圧に成功。この一件でさらに街中から女傑と恐れられるようになる。

サレルノ

ルクレツィアの後の夫アルフォンソ・ダラゴーナ王子の領地。劇中でも美しいと語られるように、世界遺産に登録されたアマルフィ海岸も有名。

ヴェスヴィオ山

ナポリ病を流行らせたとしてフランス軍に追われていたアルフォンソ王太子が発見された場所。ポンペイを噴火で埋没させたことで有名。

フィレンツェ共和国

ルネサンス文化の中心都市として文化・学問を開花させたが、サヴォナローラの登場でルネサンス文化に抑圧が…。

サンタ・チェチーリア教会

チェーザレの元恋人ウルスラが修道女として仕え、聖チェチーリアが祀られている教会。ドラマではピントゥリッキオによる天井画だが、実際は別作家による。

ローマ教皇領 ヴァチカン

全世界のカトリック教会の総本山。絶大な権力を誇ったボルジア家は「神の名のもとに」欲望の限りを尽くした。

ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 シリーズ

ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 ファーストシーズン 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ

ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 セカンドシーズン 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ

ボルジア家 愛と欲望の教皇一族 ファイナル シーズン 全話あらすじ – 世界の歴史まっぷ

あらすじ

第1話 ふたつの顔

スキャンダラスな幕開けを迎えるセカンドシーズン。アレクサンデル6世(ローマ教皇)は新たな愛人を手に入れる。古代の壁画などを発見し、市民のために
ルクレツィアは生まれたばかりの赤ん坊の世話をし、チェーザレとホアンは兄弟間のライバル心をあらわにする。

アレクサンデル6世、チェーザレ、ホアンらボルジア家は、フランス軍がナポリでナポリ病(ペスト)で足止めされている間に、ロマーニャと教皇領の名家であるにも関わらず教皇を裏切ったヴィテッリ、オルシーニ、スフォルツァ家に復讐と、それに並行してローマの復興を誓う。
アレクサンデル6世(ローマ教皇)は偶然に古代の大量のフレスコ画や彫刻を発見し、構成のためにヴァチカンの一室に移して保護・修復する。グレコ・ローマン博物館蔵のセラピス神の雄牛と思われるような彫刻も登場する。
ローマ復興のためにローマの聖職者、貴族、市民が参加する祝賀行事を催す。

ナポリ病

1492年以降、通常イタリアではフランス病とよばれ、フランスではナポリ病と呼ばれる、当時は死に至る危険な伝染病があった。梅毒のことである。1492年にコロンブスの新大陸発見の際には、様々な動植物がヨーロッパにもたらされたが、それとともに梅毒にかかった船員たちがヨーロッパにその危険な病原菌を持ちこんだことが始まりとされる。イタリアでは、フランス軍が梅毒をナポリに持ち込み、娼婦を介してフランス軍からイタリアに蔓延したとうわさされ、フランスでは、ナポリの娼婦がフランス兵にこれをうつし、フランスに蔓延することになったとされた。本編中においてはナポリ王国ではペストがはやっているような描写があるが、この当時、10年おきぐらいにペストが流行したのは事実である。

フェランテ王の食卓

スペインのアラゴン家出身のナポリ王フェルディナンド1世 (ナポリ王)(1423~94年、在位58年~94年)は、王位に就いた時から王国内の領主たちの反乱に手を焼いていた。これは、スペインのアラゴン家とフランス系のアンジュー家がナポリ王位をめぐって数百年間争い続けてきたことが原因であったが、実はそもそも、この王位は、外からやってきた外様の社長のようなポストであり、王が王国を掌握しているわけではないことに原因があった。つまり各地方の実権は、それぞれの場所の領主が握っていたのである。フェランテ王は、王国内の貴族の勢力を削ぐことに努めたため、領主たちは1485年、ナポリ王と対立していた教皇とジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の援助のもとに反乱を起こしたが敗れた。1487年、王は反乱に加担した領主たちを和解のしるしの宴会に招き、その場で彼らを逮捕・投獄、多くの者が処刑され、彼らの一部は剥製にされたという伝説が作られた。

ロドリーゴ・ボルジア

アレクサンデル6世(ローマ教皇)(在位 1492年~1503年)。スペイン、ハティヴァ生まれ。ボローニャ大学法学部で優秀な成績で教会法学教授資格を取得すると、伯父のカリストゥス3世(ローマ教皇)の力で若くして枢機卿に上り、さらに教皇庁事務方トップである教皇庁副尚書の役職を得て数代の教皇に仕えた。そして1492年のコンクラーベ(シーズン1参照)では、イタリア内で孤立することを恐れたスフォルツァ家の支配するミラノ公国の支援を受け、ライバル、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿をおさえて、ついに教皇の地位に登りつめた。しかし1494年、ナポリ王国の圧力に耐えかねたミラノ公国の支配者ルドヴィーコ・スフォルツァはフランス王国をイタリアに引き入れ、教皇アレクサンデル6世は巧みな外交手腕を発揮してフランス王国の圧力をかわすも、ナポリ王国はフランス王に占領されてしまった。

第2話 罪深き関係

赤ん坊の父親である馬丁のパオロがルクレツィアに会いにローマを訪れる。だが彼を歓迎しない者もいた。一方、教皇は二人の愛人とともに、ローマの街へ繰り出し、貧困の現状を知る。

ローマの街を歩き、貧困の現状を知ったアレクサンデル6世(ローマ教皇)は、貧者に届いていない教皇庁の財産の管理の見直しをし、街中に溢れているハトの駆除を始める。
アルフォンソ2世 (ナポリ王)死去
馬丁パオロ死去

聖チェチーリア

聖チェチーリア(生没年不詳、帝政ローマ期BC200年ごろ)は、キリスト教の聖人。特にカトリック教会において有名な聖人であり、音楽と教会音楽の守護聖人とされる。これは、彼女が死のときにあって、神を讃える歌を捧げたからとされる。 ローマのトラステヴェレ地区、古い時代にユダヤ人居住地区のそばに、彼女を称え、5世紀頃にサンタ・チェチーリア教会が建築された。その後820年にローマ教皇パスカリス1世によって壮麗に建て替えられ、1599年にはスフォンドラーティ枢機卿によって再び改築された。ローマの音楽院である、聖チェチーリア音楽院もこの聖女にちなんでいる。

ヴァチカンの財政

教皇庁の収入には2種類あった。一つは霊的収入といい、信者の救いにかかわるもの、つまり教会の運営のために、聖書に根拠をもつとされた十分の一税などの税である。これは信者全員にかかるため、本来はヨーロッパ中にある教会組織からローマにあるヴァチカンに送られてくるはずのものだった。もう一つは世俗収入といい、教皇庁が領主としての権限を持っている地域に対して、世俗の王たちと同じようにかけることのできる、通行税や物品税などの税による収入である。この中には、各都市に割り当てられた上納金のような税も含まれた。しかし、例えば14世紀の教皇庁のアヴィニョン捕囚の時代には、教皇庁はフランス王国内のアヴィニョンに移され、フランスの政策に協力して中立性を失ったとして、ヨーロッパ中から送られてくるはずの霊的収入が激減した。また同時に、教皇庁がイタリア内になかったために、教皇領と呼ばれる教皇庁が領主権を持っている地域は実質的に教皇庁の支配を受けなくなり、その地域の支配者たち、スフォルツァ家やオルシーニ家やヴィテッリ家は教皇庁に世俗的収入を送らなくなった。歴代の教皇たちはローマ復興を期待されたが、このために、その資金はなかったのである。

教皇の愛人

カトリックの聖職者の独身制は始めからそうであったのではなく、11世紀のグレゴリウス7世(ローマ教皇)やウルバヌス2世(ローマ教皇)の指導により始められた。これは、本来は神のみを思わなければならない聖職者が、神ではなく、地上の事物、この場合は女性に奪われるなどということはあってはならないという考え方に基づく。このような観点から教皇の妻帯もあってはならないものだった。とはいえ、ルネサンス教皇の時代には、多くの教皇が息子をもうけていた。例えばシーズン1の冒頭で、先代のインノケンティウス8世(ローマ教皇)が世を去るときに、姦淫の罪に関しては正しい態度をとれなかったと告白しているが、彼には数名の子どもたちがいたことが分かっている。そしてアレクサンデル6世(ローマ教皇)に関しても、ヴァノッツァ・カッターネイやジュリア・ファルネーゼとの関係は有名であり、後のユリウス2世(ローマ教皇)、つまりジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿にも愛人が複数いて、彼はそのために梅毒にかかって足をおかしくしていたことが分かっている。そして教皇の愛人たちも、正しい婚姻関係という制度から外れているために、ある意味、高級娼婦として扱われたのだった。

第3話 美しき策略

教皇とルクレツィアがパオロの埋葬をめぐって意見を対立させるなか、フランス軍が再びローマに進軍してくる。その頃、デッラ・ローヴェレはひそかにローマに戻り、新たな策略をめぐらしていた。

カテリーナ・スフォルツァとペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ(ルクレツィア・ボルジアの元夫)はアレクサンデル6世(ローマ教皇)への復讐のため、ナポリにいるシャルル8世(フランス王)に謁見し、フランス軍がローマを侵攻する際に協力する見返りに自分たちの城を守れる数の大砲を要求する。
ホアン・ボルジアはスペイン貴族マリア・エンリケス・デ・ルナとするためスペインに向かう。
ローマに進軍したフランス軍とカテリーナ・スフォルツァらは、ボルジア家の策略により城壁の外を通って帰国する。

修道士

修道士とは通常の司教などの聖職者とことなり、神に直接仕えることを望んで出家した人のことをいう。ローマカトリック教会の修道会運動は西暦800年代に聖ベネディクトが始めた。彼が立ち上げたベネディクト会は、瞑想修道会と呼ばれ、修道士は、都市を離れた山の中に僧院を作り、そこで空の彼方にいる神だけを思って孤独に生活した。この点で、都市にあって人々を教え導き、政治的な役割も果たし行政的な権限なども持っていた司教などの通常の聖職者とは、神に対する態度が大きく異なった。この、神への献身的な帰依という点は、後の托鉢修道会の修道士なども同じであり、そのため、神学に秀で、都市に正しい教えを広めようとしたドミニコ会士であったジローラモ・サヴォナローラが神の声を聞いたとされるのも、そのような伝統からきているのである。

自殺

キリスト教では自殺が大罪であることは日本でもよく知られている。自殺は、自分自身に対するとり返しのつかない暴力をふるったという罪であるとされる。特に、人間の生命とは、人間の魂が天国に行くために神から与えられた恩寵であるとされたために、生命を自ら断つという行為は、その神から与えられた人間としてのあり方の否定だと解釈され、自殺者は神のいる天国を拒否したために地獄に堕ちるものと考えられていた。なお、魂には自由意志があるとされるため、その自由を守るための自殺という、一種の殉教に近いものならば、罪に問われないことがある。

大砲

1300年代もすでに大砲はあったが、鋳鉄技術が未熟だったために、鍛鉄の板を張り合わせて筒状につないだものだった。そのため破壊力もあまりなく、壊れやすく危険だった。1400年代後半に入ると、青銅を鋳造して大砲を作るようになった。この結果、大砲の威力は増し、また水平方向に発射できるようになったので、城壁などを攻撃できるようになった。1400年代後半、この新型の大砲が導入された直後は、薄く高い城壁を持っていた中世の城は簡単に落ちるようになった。ところがこの後、低く厚い城壁を持つイタリア式築城術が発明されると、城はそれほど簡単に落ちなくなったのである。またこの頃は、砲弾が回転して飛んでいくような工夫がされなかったために、砲弾は急速に失速して落下することになった。なお、砲弾の着弾地点を計算する道具を発明し、有名になったのは後のガリレオである。

第4話 闇夜の奇襲

教皇はある重要な決定を下す。それは、チェーザレと共に、残忍なフランス軍を迎え撃つべく、軍を引き連れて戦地へ赴くため、ヴァチカンの権限をルクレツィアに預けるというものだった。

フランス軍はオスティアを通ると、聖チェチーリア修道院を破壊し、チェーザレの愛するウルスラ・ボナデオを含め修道女を皆殺しにした。
ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァとマントヴァ公フランチェスコ2世・ゴンザーガがアレクサンデル6世に謁見し、略奪しながら北上するフランス軍に対し、ヴェネツィアとミラノ、マントヴァが団結してフランスと戦うと申し出る。
チェーザレとミケロットは選りすぐりの傭兵隊を作る。
教皇庁の帳簿を調べるジュリア・ファルネーゼは、ヴァチカンの権限を預かるルクレツィア・ボルジアと手を組み、貧しい市民のために動く。

傭兵

現代の我々は、傭兵は正規軍を補完する存在と考えがちだが、ルネサンスのイタリアにおける軍隊の主力は傭兵だった。これは、装備維持に金がかかり、高度な剣技などを習得する必要があった重装騎兵が圧倒的な戦力だったためである。一方、市民兵でも務まる歩兵部隊は守備的な、あくまで傭兵を補完するものでしかなかった。また、実際の軍隊においては、戦う兵士以外の輜重部隊等が重要だった。たとえば2000騎の騎兵がいたとして、彼らの使う馬が出す大量の糞尿を毎日処理しないと、すぐに衛生面で問題が発生し、疫病がはやることになったはずだからである。イタリアの軍に比して、正規兵的とされた当時フランス軍も、実は傭兵的だった。ドラマ中で、おそらくは十分な見返りがないために、王からの出兵の要請を拒絶しているシーンがあったが、実際、王が自分の率いる全軍を掌握している訳ではなかったのである。

フランチェスコ・ゴンザーガ

史実上は1495年、ナポリからフランスに撤退しようとするシャルル8世(フランス王)のフランス軍と、教皇が中心になってまとめたミラノ公国とヴェネツィア共和国の同盟軍が衝突し、イタリア側がかろうじて勝利した戦闘はフォルノーヴォの戦いと言われる(同年ナポリはアラゴン家のもとに戻った)。この戦いでイタリア側の軍を率いたのが、ヴェネツィア軍の司令官をしていた(つまり傭兵隊長だった)マントヴァ侯爵、ゴンザーガ家のフランチェスコ2世、つまり、ドラマ中では典型的な武人として描かれたフランチェスコ・ゴンザーガ(1466- 1519年)だった。実際には、彼の妻は名高いイザベッラ・デステであり、二人は文化の保護者として名高かった。なお、フランチェスコとルクレツィアは関係があったとされ、フランチェスコが教皇庁に出入りしていた若い高級娼婦を妻に迎えたというドラマの設定は、そこからきているのかもしれない。

アヴィニョン

フランス王国内にある、イギリス王が所有し、教皇庁が拠点を構えていた都市。その複雑な権利関係から、1308年に教皇庁がローマからアヴィニョンに移された。その後の1377年、グレゴリウス11世(ローマ教皇)が教皇庁をローマに戻すが翌年逝去し、1378年のコンクラーベでイタリア人のウルバヌス6世(ローマ教皇)が教皇に選出されると、多数派のフランス人枢機卿らがそれに反発し、ウルバヌス6世の廃位とジュネーヴ出身のクレメンス7世の教皇選出を宣言し、クレメンス7世(ローマ教皇)はアヴィニョンに戻って教皇位を主張した。その結果、カトリック教会は両派に分裂することになった。ドラマの中では、シャルル8世(フランス王)がアレクサンデル6世(ローマ教皇)を「アヴィヨンに連行し、屈辱のうちに息絶えるのを見届けてやる」と叫んでいるが、それは教皇を廃位して、アヴィニョンで牢に入れ、死ぬまで幽閉すると解釈できる。

第5話 選択のとき

チェーザレがスフォルツァ家に忠誠を誓うよう迫り、スフォルツァ家は忠誠心を試される。一方、変装をしてでかけた教皇は、反逆的な修道士の動向を探る。そんなとき、サン・ピエトロ大聖堂に雷が落ち…。

アレクサンデル6世はアスカニオ・スフォルツァとフィレンツェへ向かう。
フィレンツェで熱弁を振るうドミニコ会のジローラモ・サヴォナローラにジュリアーノ・デッラ・ローヴェレは教皇の暗殺計画を持ちかけ、祝福される。サヴォナローラの信者は増え続け、芸術や装飾を禁じメディチ家を弾圧していた。
ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ死去。

フィレンツェとメディチ家

1200年代からフィレンツェは銀行で栄えてきた。実は、キリスト教では、貸した金に利子を取ることは許していない。そのために、フィレンツェなどにある大銀行は、外国との貿易に関係して両替の名目で利子をとった。そのような銀行業=貿易による輸入品等を都市内で高く売るために、彼らは都市内の手工業や都市周辺の農業を圧迫することがあった。1400年代後半にメディチ家がフィレンツェの覇権を握ったのは、彼らが銀行業を営む大商人でありながら、自分たちに不利になる税制を採用するなどして、都市内部の貧しい民衆の不満に応えたからであった。しかし1490年代、独断専行のピエロの時代になると、彼は仲間の大商人たちからも、生活がさらに苦しくなった民衆からも恨まれるようになった。その結果、彼はフィレンツェを追放されることになり、怪僧サヴォナローラがフィレンツェの実権を握ることになったのである。

フォルリ

フォルリの町は北イタリア、ロマーニャ地方の交通の要衝を占める重要な都市である。そのため同市の皇帝党名家と教皇党名家との争いが絶えず、政権が安定しなかった。1480年にシクストゥス4世(ローマ教皇)の甥ジロラモ・リアーリオが同市の政権を奪取したが、同教皇の死後、1488年に教皇庁のジュリアーノ・デッラ・ローヴェレに扇動された同市の有力者にジロラモが暗殺された後は、妻のカテリーナ・スフォルツァが正統後継者である息子オッタヴィアーノの後見役として実権を握った。なお、この暗殺事件の際にカテリーナが息子たちを人質に取られて脅され、城壁に立ち上がって、性器を露わにして指差しながら、これでまだまだ息子が10人は生めるから人質など意味がないと叫んだ、という逸話は事実ではない。なぜなら、フォルリの支配権を継承できるのは、暗殺されたジローラモ・リアーリオの血を引いていなければならないからである。なお、史実では、ボルジア家とカテリーナが衝突するのは1499年、カテリーナの後ろ盾となっていたミラノ公国が滅んだ後のことである。

売春

13世紀の神学者トマス・アクィナスは売春婦を労働者としたが、13世紀後半以降、娼婦の社会的地位は下落し、彼女たちは社会から隔離され排除される者として位置づけられ、14世紀末には公営の売春宿が出現した。都市内指定区域の限られた者だけに売春を許可するというもので、これにより都市の制度に組み込まれることとなった。しかし15世紀には娼婦の社会的地位が上昇し、イタリアでは、歌が歌え、楽器が演奏でき、読み書きのできる高級娼婦の時代を迎え、枢機卿たちが愛人にしたのは、このような売春婦だったのである。歴史的には、ドラマの頃には、知性と魅力を備えた彼女たちに対する憧憬もあらわれるようになった。またローマでは、この時代の推定人口3-6万人に対し、7000人前後の売春婦がいたとされる。もちろん全員が高級娼婦ではなく、高級から低級まで分類され価格もさまざまだった。教皇庁は彼女たちに許可証を発行し、名前、住所、料金を記録し、彼女たちの収入から税金を徴収していた。

第6話 改悛

落雷を神の怒りの印と確信した教皇は、悔悛し質素な食生活を送る。それと同時に、新たな同盟を結ぶべく、嫌がるルクレツィアを無理やり嫁がせようとする。

男色

男色は当時、堕地獄の大罪であった。これは、聖書におけるソドムの町の性の乱れが男色のこととされ、その町が神の怒りによって滅ぼされたことを典拠とし、また神学上は、神の定めた自然の法則に逆らう行為であるゆえに罪であるとされた。しかしながら、現実には当時のヨーロッパにおいて、男色は流行していた。なぜならルネサンス文化とは、ギリシャ・ローマの古典文化の復興を目指したものであったが、その古典文化においては男性同士の友情、すなわち愛が最も高貴なる感情とされ、男女の間の愛はただの欲望とされたからである。

ヴェネツィア総督

ヴェネツィア総督(通常は統領と訳される)は終身の国家元首職である。選出方法は、共和国の方針を定める、1000人から1500人で構成される大評議会から複雑な手続きによって選出される。しかし、多数の貴族たちの合議で政治が決定されるシステムを維持するために、統領の権力は大きく制限されていた。たとえば、外国の軍事力を引き入れて強大な権力を握ることができないよう、統領は、一人で外国使節と会うことはできず、周囲の顧問団の承認を得てからでなければ、外国使節に対する返答もすることができなかった。

異端の罪

キリスト教の異端とは、教会の統一を破るものやキリスト教だと称するが、伝統的なキリスト教の教えを踏み外している教義・学説などをさす。ローマ・カトリック教会では、1200年代に南仏のカタリ派の異端以来、教皇が異端審問官を直接任命し、彼らが各地を回って異端審問を厳密に実施するようになった。とはいえ、スペインの異端審問や、16世紀後半のローマの異端審問と異なり、あまり死罪はなかったとされる。発足当時、異端審問官は当時学問の盛んな修道会として知られたドミニコ会から任命されることが多かった。異端の罪に問われるのが、本来は異端審問官を務めることが多かったドミニコ会のサヴォナローラだったのは皮肉である。なお、史実では、ジローラモ・サヴォナローラを糾弾することになるのは、かつてチェーザレ・ボルジアの家庭教師を務めていた法学者、フランチェスコ・レモリーネスという人物であった。

第7話 フォルリ包囲

ホアンがスペイン兵を引き連れて戻り、スフォルツァ家の城を包囲する。チェーザレとマキャヴェリは”虚栄のかがり火”を目撃する。また、ルクレツィアは父に背いて…。

新大陸で神の教えを広めたコンキスタドールのエルナンド・デ・カバーリョスを伴って2代目ガンディア公爵となったフアン・ボルジアが帰ってくる。教皇軍総司令官としてカテリーナ・スフォルツァのフォルリ城を包囲する。
ジロラモ・サヴォナローラの神権政治は贅沢品としてフィレンツェの街中からドレス、指輪、本、工芸品や美術品、絵画をシニョリーア広場に集め焼却するという「虚栄のかがり火」を行ない、アレクサンデル6世(ローマ教皇)の勅書を無視して演説を続けた。

コンスタドール

スペイン語で征服者のこと。とくに1492年のコロンブスによるアメリカ到達以来の、15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者を指す。それゆえドラマの時点ではまだ征服はなされておらず、厳密には「コンキスタドール」という言葉はなかったと推測される。1521年にアステカ王国を侵略したエルナン・コルテス、1533年にインカ帝国を侵略したフランシスコ・ピサロらが代表的なコンキスタドールとされるが、彼らは金銀を求めてアメリカ大陸を探検する中でアメリカ大陸固有の文明を破壊し、黄金を略奪するなどした。またインディオの生命財産をおびやかして異教徒の女性に対し強姦・暴行を行った。

虚栄のかがり火

正確には「虚栄の焼却」。教皇庁との対立関係にあったサヴォナローラは、頼みのフランス軍が敗退した後、ますます先鋭化し、市民に厳しい禁欲生活を強いる神権・独裁政治を行うようになった。その結果、1497年、人の目をキリストの教えから背けさせる、虚栄の品物と思われる、ギリシャ・ローマ文化の影響を受けた裸体の彫刻や絵画、鏡、哲学や文学などの書物を、フィレンツェ政庁舎前のシニョリーア広場に積み上げて焼き払った。これが、「虚栄の焼却」と呼ばれる出来事である。

ボッティチェリ

サンドロ・ボッティチェリ(1445―1510)はルネサンス期フィレンツェの画家。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ。メディチ家の保護を受け、宗教画、神話画などの傑作を残した。代表作は、古代ギリシャの影響を受けた新プラトン主義哲学の思想を表わしている『春』、『ヴィーナスの誕生』など。メディチ家当主ロレンツォ・デ・メディチの死後、ドミニコ会の修道士サヴォナローラがフィレンツェの腐敗を批判し、政治への影響力を強めると、ボッティチェリも神秘主義的な宗教画を描くようになったが、サヴォナローラの反対派から、絵画の注文も受けている。ダンテ『神曲』の挿絵の一部はメディチ家の依頼だが、一部は最後期に制作されたともされる。サヴォナローラに心酔して絵画を捨て、自作を『虚飾の焼却』に差し出し、その後、1501年頃には制作をやめた。

第8話 真実と嘘

ホアンは自ら犯した背信行為によって追い込まれていく。自らの意のままにことを進めるべく、策略をめぐらすルクレツィア。そして、デッラ・ローヴェレは、刺客を送り込んでいた。

シャルル8世(フランス王)死去。

パッラヴィチーニ家

ドラマの中ではヴェネツィアの総督を輩出した貿易を営む有力貴族となっているが、史実上でボルジア家と関係するパッラヴィチーニ家は、実はこの時代、枢機卿アントニオ・パッラヴィチーニを輩出していた、ジェノヴァの名門貴族である。ただし彼らの祖先はスペインから移住してきており、これはドラマの設定とも符合している。アレクサンデル6世が選ばれたコンクラーベにおいて、ジェノヴァの勢力は、前教皇インノケンティウス8世がジェノヴァ出身で、彼を枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレが支えたことから、ジュリアーノ支持に回っていたが、パッラヴィチーニ家は、おそらくスペイン出身であることが理由となり、アレクサンデル6世に票を投じたことが分かっている。

アヘン窟

ドラマの中では劇画の中で見るようなアヘン窟の姿が描かれているが、この時代にはおそらくアヘン窟はない。なぜならおそらく麻薬としては用いられていなかったからだ。アヘンに関しては、ローマ帝国第5代皇帝ネロ時代の医師ディオスコリデスが採取法及び、鎮痛剤、睡眠剤としての薬効を著書の中で記述していた。しかし西ローマ帝国の滅亡により、ヨーロッパではアヘンは廃れてしまった。一方、ギリシャ・ローマ文明を継承したイスラム圏では、ディオスコリデスの書物も読まれ、アヘンが薬用として使用され続け、中世ヨーロッパの哲学・医学に大きな影響を与えたアヴィケンナがこれをその医学に用いた。こうして11世紀前後、イスラム圏との接触を経て、アヘンはヨーロッパに再伝来し、再び医薬品として用いられることとなったのである。ドラマの時代である15世紀頃とはルネサンスの時代であるが、そのギリシャ・ローマ復興の機運は、ヨーロッパがイスラム圏との接触で受けた影響の結果であり、ここでアヘンが画面に登場するのもその名残かもしれない。

ルクレツィアの婚約(政略結婚)

シーズン1でルクレツィアはジョヴァンニ・スフォルツァと結婚し、離婚していた。正確には、ジョヴァンニは無理やりに性的不能者の烙印を押され、そのため、その結婚は事実上成立していなかったので、形式上の結婚を取り消すというものだった。不名誉を恨んだ前夫は、ルクレツィアの淫蕩、ボルジア一族の近親相姦などを声高に唱えた。現実には、彼女は離婚後しばらくサン・シスト修道院に引きこもり、教皇の使節ペドロ・カルデロンと恋仲となって彼の子どもを出産した。しかしペドロは、ルクレツィアの政略結婚の邪魔になるためにチェーザレに暗殺された。ルクレツィアはその後、ドラマと同じく、ナポリ王家であるアラゴン家の庶出の王子アルフォンソ・ダラゴーナと結婚した。だが、それも束の間、史実上でもさらなる悲劇を二人が襲うこととなるのである。今後ドラマがその事件をどう描くのか、興味は尽きない。

第9話 火の試練

ついに家族関係が危機的な状況を迎えてしまう。教皇がルクレツィアの赤ん坊の洗礼を行うことを決め、ホアンはその子の命を脅かす。そしてチェーザレは冷酷な決断を下すことになる。

神聖政治がエスカレートしていくジローラモ・サヴォナローラに、チェーザレは「火の試練」を挑む。結果サヴォナローラは失脚し民に見放される。

ピュラモスとティスベ

ギリシア神話の一つ。オウィディウスの「変身物語」に収録され、中世に伝えられた。隣あう家に住んでいた美青年ピュラモスと美少女ティスベが恋に落ちたが、両家は敵対しており、許されぬ恋だった。二人は駆け落ちを企て、街はずれにある泉のほとりの桑の木でその待ち合わせようと約束した。約束の晩、ティスベがそこでピュラモス待っていると獅子が現れ、ティスベが岩陰に隠れた拍子にベールを落とし、それを獅子は血まみれにして引き裂いた。遅れて来たピュラモスが、引き裂かれた血まみれのベールと獅子の足跡を見てティスベが殺されたと誤解し、短剣で喉を突いて自殺した。戻って来たティスベは、息絶えたピュラモスの姿を見て自殺し、ピュラモスの後を追った。桑の木は、流れ出た血により赤く染まった実をつけるようになったという。この話は、キリスト教的には、後のキリストの殉教を暗示しているとも、恋の罪を暗示するともされる。

アナテマ(破門)

アナテマとはギリシャ語の呪いの意であるが、ラテン語のエクスコムニカツィオ、イタリア語ではスコムニカは、信者たちの共同体からの排除の意。実際、カトリック教会において破門されると、信者に与えられている教会内での宗教的権利は無期限に停止され、他の信者が被破門者と交流を持つことは基本的に禁止される。理念的には、信者たちの共同体とは人類全体を意味することから、破門とは人権停止のことであり、社会からの追放を意味した。中世において、破門は、教皇の対立者に対する対抗、攻撃としての色を持ったが、政治的に破門を利用することが度重なると、その効力は徐々に薄らぎ、教皇自体の権威の失墜ももたらすこととなった。ただし、完全に効力が失われたわけではなく、たとえばサヴォナローラなどは、破門によって政治生命を絶たれたともいえる。2013年のコンクラーベでは、コンクラーベ中に情報を外に洩らした聖職者は破門されることが決定された。

火の試練

神明裁判の一種で、フィレンツェにはもともと「火の試練」の伝説があった。それによれば、アレクサンデル2世(ローマ教皇)(在位1061-1073)の時代、聖職売買に明け暮れたフィレンツェ司教メッツァバルバを弾劾した近郊の修道士たちは、教皇から神明裁判の許可をもらって、1068年2月13日に「火の試練」を行い、彼らの一人、火のピエトロは燃える薪の中を火傷を負わずにくぐり抜け、自分たちの正しさを立証したという。このような伝説のためだろうか、ドミニコ会修道士にして、預言者としてフィレンツェの政治を指導したサヴォナローラは、教皇アレクサンデル6世から破門された後、1498年、対立するフランチェスコ会修道士から「火の試練」の挑戦を受けた。結局は両者とも火の試練を忌避したが、その翌日に反サヴォナローラの暴動が勃発、市政府に拘束され、その後の宗教裁判の結果、異端の罪により火刑に処された。

第10話 告解

次々と危険な告解がなされる。チェーザレはサヴォナローラの名声を葬り去ろうと決意し、教皇は瀕死の状態に陥るのだった

ルクレツィア・ボルジアは自らナポリ王アルフォンソ2世の庶子ビシェリエ公アルフォンソ・ダラゴーナを結婚相手に選ぶ。
フアン・ボルジアの遺体が発見される。
ジローラモ・サヴォナローラは激しい拷問ののち異端者として火刑に処され殉教した。

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